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「ぶっさいくな顔」
啼きすぎて、泣きすぎて声も枯れた頃、雄大さんが私の顔を覗き込んで言った。
涙も鼻水も吸い込んだ雄大さんのTシャツはぐしょぐしょ。
「気が済んだか?」
私は小さく頷いた。
雄大さんはTシャツを脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。ハンガーに掛けてある別のTシャツが乾いていることを確認して、着る。
「ヤリ逃げしたらぶった切るんじゃなかったのか?」
「ヤリ逃げするんですか」
「しねーよ。言っただろ? お前は俺のモンだ」
雄大さんは私をリビングに連れて行くと、ソファに座らせた。昨夜、雄大さんに抱かれたソファ。グレーの布張りで触り心地が良く、素肌にも温かかった。
「コーヒーでいいか?」
雄大さんがコーヒーを淹れてくれた。今度はブラックで飲む。彼もカップを手に、私の隣に座った。
「三か月くらい前に……お前と黛が話してるのを聞いた」
「え?」
「黛は脅迫まがいにお前を口説いていて、その時お前が言ったんだよ。『桜は渡さない』って」
そうだった。
昨夜の黛との会話に『桜』の名前は出ていない。それなのに、雄大さんは聞いた。
『桜って、お前の妹?』
「察するに……。黛はお前が堕ちないから妹に乗り換えた?」
私はコーヒーを一口飲んだ。温かくて、落ち着く。
私は昨夜からソファの横で放置されている鞄から、スマホを取り出した。今の今まで、存在すら忘れていた。
ディスプレイを数回タップし、写真を開く。
「妹の桜です」と言って、見せた。
雄大さんの驚いた顔。
彼だけじゃない。
私と桜が姉妹だと知って、驚かない人はいない。
「随分……似てないな……? しかも若くねぇ?」
「可愛いでしょう? 私と違って。まだ十八歳なんです」
「は? 十八?」
「ええ」
私はスマホをテーブルの上に置いた。
「私の母は、もう亡くなっているんですけど、十九歳の時に私を産みました。未婚で。私の所作が綺麗だと、板前さんが言って下さったでしょう? 祖父母の教育です。礼儀作法に厳しい人でした。一人娘に貞操観念を教え忘れたようですけど」
雄大さんは黙って聞いていた。
「私が十歳の時に、祖父が癌で余命宣告されました。祖母はもう亡くなっていて、娘と孫の行く末を心配した祖父が母を結婚させたんです。そして、桜が産まれました」
「異父姉妹か」
「はい。義父はとても優しい男性で、私のことも実の娘のように可愛がってくれました。実の母親以上に……。ですが、私が二十歳で桜が八歳の時に亡くなりました。その半年後に、母は再婚したんです。新しい義父の名前は、那須川勲。……彼は立波リゾートの副社長でした」
雄大さんの表情に驚きを見た。
当然だ。
「立波リゾートって……」
立波リゾートはリゾート開発やホテル業、観光業において日本で三本の指に入るであろう企業。
現在の社長は三代目で、世襲。
「義父は前社長の妻の弟、つまり義弟でした」
「現社長の叔父ってことか」
「そうです」
「血縁関係はないにしても、お前お嬢様じゃん」
「まぁ、そうなりますね。そこに目を付けたのが、黛です」
「逆玉狙い?」
「簡単に言えば、そうです。ただ、黛の狙いはそれだけじゃない」
雄大さんが少し考えて、言った。
「まさか、立波リゾートの乗っ取りとか……?」
「はい」
雄大さんが、フンッと鼻で笑った。
「野心家もそこまでとなると、ただの馬鹿だな」
「それが、そうとも言えないんです」
「……と言うと?」
「義父は私と桜に立波リゾートの株を遺してくれたんです。それと……重役の椅子を……」
「どういうことだ?」
「前社長には子供がいなくて、義父は次期社長候補でした。けれど、義父の病気がわかって、前社長は妻の兄の息子、つまり甥を養子にして後継者にしたんです」
「戸籍上はお前の従兄ってことか?」
「そうです。現社長、立波亮介は現在五十七歳で、未婚なんです。その上、彼は社長職を嫌がっていました。それでも、彼が社長を継いだのは、期間限定の条件付きだったからです。その条件というのが……」
雄大さんは複雑な話を聞き逃すまいと、黙って頷くだけだった。
「本来の社長候補であった勲の娘婿が就任するまで」
「は……?」
「私か桜の夫が次の社長になるんです」
「なんだ? それ――」
「……」
時代錯誤も甚だしい。
そして、私と桜がその事実を知らされたのは、現社長の就任式の後だった。
『立波リゾートを頼む』
母が那須川の義父と結婚した時、母が亡くなった時、義父が亡くなった時の三度しか会ったことのない伯父や従兄にそう言われ、私も桜も言葉がなかった。
受け入れるとか拒絶するとかいう以前の問題だ。
理解出来ないのだから。
雄大さんもあの時の私と同じで、意味が分からないといったふう。
「わけ……わからないですよねぇ」
私はそう言って、温くなったコーヒーを飲んだ。
「わけは分かんねぇけど、とにかくそれを黛が知って、お前と妹に近づいたってことか?」
「そうです」
「黛はどうやって知った?」
「黛は暁不動産の社長の息子なんです。婚外子ですけど」
暁不動産は関東では名の知れた不動産会社で、オフィスビルやマンションを数多く所有している。
「二年前の立波グループの社長就任記念パーティーに、暁の名前で潜り込んでいたんです。私のことを調べて近づいてきました。けど、私を口説くのは無理だとわかって……」
「妹に鞍替えした……か」
私は頷いた。
「それにしても、二年前なんて妹は十六歳か? 黛なんておっさんだろ。しかも、一歩間違えば犯罪だ」
「妹は……実の父と義父にとても可愛がられて、贅沢に育ったんです。年上の男性に優しくされて、その相手が少なからず裕福なら、桜をその気にさせるのは簡単だったと思います」
「姉妹でも随分違うな……」
「私は……祖父母に厳しく育てられましたし、派手で浪費家の母を見てきたせいか無駄な贅沢は嫌いなんです」
「あーーー。それでか!」と、雄大さんが言った。
「……?」
「いや、こっちの話。で? 妹は黛に堕ちたと?」
「はい……。一年ほど前に、結婚したい人だと紹介されたのが黛でした」
「結婚……ねぇ」
この三年間に起きたことをこうして言葉にしてみると、かなり現実離れしていると感じた。
ホント……ドラマか映画みたい……。
現実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。
全て、作り事ならどんなにいいか……。
「で?」と、雄大さんが聞く。
「え?」と、私も聞く。
「あとは?」
あとは――――。
「それだけです」
「…………」
雄大さんが無言で私をじっと見た。
心の中を見透かされそう。
けど、言えない……。
私はギュッと口をつぐんだ。
「とりあえず、わかった」
私にこれ以上話す気はないとわかったのか、雄大さんが言った。
「妹と黛を結婚させなきゃいいんだな?」
「まぁ……そういうことです……」
「黛を殺してでも、二人を結婚させたくない。立波リゾートを黛に渡したくない。それがお前の望みだな?」
雄大さんがもう一度、聞く。
違う。
正確には『黛賢也に死んでほしい』。
立波リゾートなんて、どうでもいい。
けれど、言えない。
言えば、死んで欲しい理由を聞かれてしまう。
「そう……です」
言えない。
「わかった。じゃあ――」
雄大さんの言葉に、私の頭の中で蝶々が舞った。