「謙太はいつも笑ってた。だから清乃も少しは元気になったし、私も謙太といる時は心が休まったわ」
美濃里さんは、遠くを見つめるようにそう言った。彼女の表情には、懐かしさと、どこか切なさが滲んでいる。
謙太は、いつも笑っていた。私といる時も、家族といる時も。優しくて、気遣いのできる人だった。
でも、その笑顔の奥に何を隠していたのだろうか。
彼女の強気な性格はどこからきたものなのか。
母親との確執、そして苦しみを抱えながら生きてきたことが、彼女をこんなにも強くしたのだろうか。
「私も、不妊治療の末に母親になって、感情がめちゃくちゃになることは身をもってわかった。でも……それでも、あそこまでなるなんて、おかしいのよ」
彼女の手が、ぎゅっと握られている。
まるで、過去に対する怒りと悲しみを抑え込むように。
「お母さんは……今……」
私はそっと尋ねた。謙太は、結婚してから義母のもとを訪れたことはなかった。
仕事が理由だと言っていたけれど、それだけだったのだろうか。
「施設にいるわ。たまに私が様子を見に行くけど……こないだ、さらに病気が悪化して、閉鎖病棟に入ったの」
思わず息を呑んだ。知らなかった。
でも、お葬式の時には来ていたはずだ。その時、義母は普通に見えたのに。
「お母さんのことは黙っておこうって……おじさんがね。お父さんのお兄さんがそう言ったの。本当にごめんなさい」
「……いえ……実は」
私は一瞬、言葉を詰まらせた。
私自身も、毒親のことは謙太と決めて、白沢家には詳細を話さないようにしていた。
それはお互い様だったのかもしれない。
私の言葉を覆いかぶせるように、美濃里さんは続けた。
「お母さんはね、謙太を溺愛していたようで、実はそうでもなかった。支配していただけなの。自分の思い通りにしたかっただけ。謙太は従順な子だったから、都合よく扱っていただけ。……あの時の熱だって、お母さんが謙太を放置したせいで酷くなったのよ。さすがにこれはお父さんも怒ったけど……それから余計にひどくなったの。謙太への干渉が……」
そんなこと……全く知らなかった。
謙太の優しさの裏に、そんな過去があったなんて。
「おじさんが、謙太が大学に入ると同時に上京させて、自分のマンションに住まわせてくれたの。お母さんから逃がしてくれたのよ。私たちも……逃げるように結婚して……お父さんも離れていって……お母さんは、ひとりぼっちになった。でもね、不思議なことに、ひとりになった途端、お母さんはおとなしくなったの。……どうやら、彼女は無意識のうちに、誰かと一緒にいることでストレスが溜まっていたみたいなの」
私はただ、黙って聞いていた。
白沢家はみんな黙っていたのね……いや、違う。
私が知ろうとしなかっただけだ。
美濃里さんとも、清乃さんとも、深く関わることはなかった。
謙太も、自分の家族のことを多くは語らなかったから、私はあえて聞かなかった。
でも、もし――私がもっと積極的に知ろうとしていたら?
話を聞き出していたら?
謙太が抱えていたものを、もっと早く知ることができたのではないか。
「美濃里さん、そんなに謝らないで……」
「だって……だって……謙太には幸せになってほしかったの。私も清乃も、逃げることしか考えられなくて、ろくでもない男と結婚して……私は離婚できたけど、清乃は離婚もできずに苦しんでる。だからこそ、謙太にはちゃんと幸せになってほしかった。あなたと一緒に、穏やかに暮らしてほしかったの。でも……だから、私たちは秘密にしたの。お母さんのことも、過去のことも……」
彼女は、肩を震わせながら泣き崩れた。
私は――彼女を抱きしめた。
謙太は、私の話をたくさん聞いてくれた。
毒親のこと、過去の恋愛のこと、私が抱えていた傷。
「頑張ったね」「辛かったね」「ぼくが守ってあげる」
そう言って、私を抱きしめてくれたっけ。
――謙太も、辛かったのね。
私は、謙太にも話を聞いて、こうやって抱きしめてあげたかった。
もっと早く……もっと早く、気づいてあげれば。
そうしたら――謙太は、死ななかったのだろうか。
私が、謙太の「死なないルート」を見つけることができていたのではないか。
「あとね……ごめんね」
美濃里さんが、涙を拭きながら小さく言った。
「私たち……謙太から、あなたのこと全部聞いてるの」
「……え?」
「謙太がね、『自分たちと同じ子がいる。彼女なら、わかってもらえる』って……」
私は、何も言えなかった。
謙太は、私に救われようとしていたのだろうか。
いや、違う。
お互いに、支え合おうとしていたのかもしれない。
「……」
私はもう一度、美濃里さんを抱きしめた。
その後――
私は美濃里さんに頼み、謙太の叔父さんの家へ行くことになった。
謙太と共に。
美濃里さんも、一緒に。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!