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瀬名秀一、25歳。神奈川県育ち。某一流大学を卒業後、業界大手のL&Bに入社。業績は社内トップクラスで対人トラブルもなし。
――先月、原因不明の突然の退職。
「――ふぅ……」
懇意の筋から仕入れた報告書を読み、理人は深く椅子に座り込んだ。
彼が来てから二週間。教育係など不要と思えるほどのスピードで、瀬名は部に馴染んでいた。
一見やる気のなさそうな、もっさりとした頭と眼鏡。
それは今や彼のトレードマークとなり、当初は戸惑っていた社員たちの間にも、彼を好意的に受け入れる空気が流れ始めていた。
「どうだ、あいつの様子は」
教育係の萩原に問うと、彼は待っていましたとばかりに目を輝かせた。
「凄いんですよ、瀬名さん! 一つ教えれば三つ先まで理解して、応用も完璧。正直、僕が教えることなんて何もないくらい優秀です」
「……ふん、まあ、そうだろうな」
興奮しきった彼の様子から察するに、よほど嬉しかったのだろう。
萩原自身も仕事はまあまあできる方だが、どちらかといえば要領がいいタイプだ。 やる気があって向上心も強い。
だからこそ人材育成にはちょうどいいのではないかと思ったのだが、瀬名はどうやら萩原に扱えるような人材ではないようだった。
資料にも書かれていた通り、瀬名の能力は萩原の数段上を行く。それに加えて、人当たりも良く物腰も柔らかいので、老若男女問わず周囲から好感を持たれているようだ。
だいたい、L&Bと言えば、うちの会社とそう変わらないくらいの規模を持つ大手メーカーだ。
それなのに突然退職した上に、特に理由もなくうちに転職してくるなんて理解ができない。
何か裏があるはずだと踏んだ理人は彼を調べさせてみたが、結果はシロだった。
「えっ? 部長、瀬名さんのことご存じなんですか?」
しまった、と思った時には遅い。萩原が興味津々な顔で覗き込んできた。
まさか、気になりすぎて身辺調査を依頼したとは口が裂けても言えない。
「……大したことじゃない。仕事ぶりを見れば判る」
適当に誤魔化し、理人はパソコンに向き直った。
「なるほど。確かにそうですね。そういえば部長、この間の瀬名さんも凄くって――」
「……何が、凄いんですか?」
「っ!」
突如、萩原の後ろから響いたテノールボイスに、理人の心臓が跳ね上がる。
まだ、あの夜の男が瀬名だと認めたわけじゃない。だが、目の前のこいつがあの夜を知っているのは確かだ。
「……丁度、君の噂をしていたところだ。随分活躍しているそうじゃないか」
動揺を悟られぬよう顔を上げると、瀬名が無機質な眼鏡の奥からこちらを見ていた。
「いえ。僕はただ与えられた仕事をこなしているだけです。萩原さんの教え方が上手いので、勉強させてもらっています」
「いやぁ、それほどでも! ていうか俺の方が年下なんだから『さん』付けはやめてくださいよ」
照れる萩原を見て、理人は二人が良好な関係を築いていることに、なぜか僅かな苛立ちを覚えた。
「鬼塚部長、これ、報告書です」
「そこに置いておいてくれ」
理人は視線を合わさず、顎でデスクを指した。
瀬名は一瞬、何か言いたげな表情を見せたが、すぐに萩原と共に持ち場へと戻っていった。
「……ん? これは……」
提出された報告書をめくると、書類の間に一枚の付箋が挟まっていた。
『本日19時 あのバーで』
手書きのメッセージに、喉の奥が熱くなる。
ハッとして瀬名のデスクに視線を向けると、ちょうどこちらを見ていた瀬名と目が合った。
理人は慌てて視線を逸らし、誤魔化すように咳払いをする。
「あの野郎……」
小さく舌打ちを漏らしながらも、理人の指先は、その付箋を誰にも見えないよう素早く引き抜いていた。