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第73話 三日目の光
帝辛が静かに口を開いた。
「……縫季。そなたの胸が、光を放っていた」
縫季は驚きに目を上げた。
帝辛は続ける。
「市場で倒れた際、そなたの胸に……小さな光が揺れていた。今も、わずかだが見える」
縫季は胸に手を当てる。
温もりが返る。帝辛の魂の呼び声。
帝辛はその光を見つめていた。
「……それは何なのだ」
縫季は少し沈黙した。
真実を語ることはできない。語れば、この世界が壊れる。
縫季は静かに答えた。
「……私にとって、大切なものでございます」
帝辛の目が細く揺れる。
「大切なもの……?」
「はい。長く探していたもので」
帝辛は縫季をしばらく見つめ、それから深く頷いた。
理由は分からずとも、縫季の言葉を否定しない王だった。
部屋に静けさが満ちる。
縫季は胸の光を見つめた。
(……もう少しだ)
光が、返事のように震えた。
その揺れは、まるで「ありがとう」と語っているようだった。
縫季の唇が、わずかに緩む。
帝辛が、その変化を逃さなかった。
「……そなた。今、笑みを見せたな」
縫季ははっとして帝辛を見た。
帝辛は穏やかに微笑んでいた。
「そなたの笑顔を、初めて見た」
縫季は言葉をなくした。
帝辛の声は柔らかかった。
「良い顔だ」
そして立ち上がる。
「休むがよい。体が戻るまで、この宮に留まるがよい」
「……ご厚意、痛み入ります」
「謝るな」
帝辛は扉へ歩く。
縫季はその背中に声をかけた。
「……陛下」
帝辛が振り返る。
縫季は、胸の底から絞り出すように言った。
「救っていただき……、ありがとうございます」
帝辛は一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「礼には及ばぬ。……回復を願っている」
扉が閉まる。
残された縫季は、胸の光にそっと触れた。
まだ温かい。まだ生きている。
光が優しく震えた。
縫季はその温もりに身を委ねながら、静かに目を閉じた。
夜が深まっていく。
◆
部屋に静寂が戻ってしばらく経ったころだった。
扉の外で、控えの侍従たちの声がかすかに聞こえた。
「……東方の政務、また難儀な様子にございますな」
「黒闢殿が左遷されて十年。あれほどの御方ですら、いまだ戻されぬとは……」
縫季の胸が、微かに波立った。
(……黒闢が、左遷されて十年……?)
黒闢は、五つの世界線にほぼ必ず存在し、帝辛を歪めた最大の要因だった。
その黒闢が――ここでは『十年前に陛下から遠ざけられている』。
十年。
胸の光が、震えた。
あの日、気丈に縫季を送り出した帝辛は、十九から二十歳の姿だった。
今、縫季が目の前に見た帝辛は――声も、所作も、視線も、年を重ねている。
三十前後だろうか。責務と経験を帯びた男の顔つきだった。
(……ということは)
ここは、あの帝辛がいた時期の『十年ほど後』の時間軸。
縫季は息を飲む。
(……辿り着いたのか)
世界線の旅の果てに探し続けた――帝辛が自然に笑って暮らしている世界線へ。
さらに侍従の声が続く。
「黒闢殿が『陛下への諫言を越えた振る舞いをしたゆえ』の左遷、でございましたな。十年前、先王が逝去なされた後、陛下ご自身がお決めになったと聞きました」
「はい。『あの者を側に置けば国の均衡が乱れる』と。陛下は早い段階でお気づきだったのでしょう」
縫季の胸が強く震えた。
帝辛が――黒闢を王宮から遠ざける決断をしていた。
あらゆる悲劇の根にあった狂気の源を、まだ若い頃に排除したということだ。
(……だから、この世界線は……)
胸の光が、縫季の内側であたたかく揺れた。
同じ生命。同じ魂。だが、別の時間を歩んだ帝辛。
縫季は、胸に手を当てる。
視界の端には、湯気の立つ茶器。卓に無造作に置かれた政務書簡。外から差し込む午後の光。
平穏だ。
穏やかで、安定した国の光だ。
縫季は、目を細めた。
これが、五つの涙を抱えて旅してきた魂が、見つけ出した世界線。
帝辛が、笑って生きている現在。
光が、返事をするように淡く瞬いた。
◆
体が戻るのに、三日かかった。
正確には――体の輪郭が戻るのに、三日かかった。
指先を見ると、もう透けていない。足を踏み出しても、敷石の感触が返る。呼吸も、浅いままだが、続いている。
縫季は宮の廊下を、壁に手を添えながら歩いた。
帝辛は「無理に動くな」と言った。それでも縫季は動いた。
(……確かめたい)
この線が本当に「ここだ」と言える線かどうか。体が戻るまでの間、横になりながらずっと考えていた。
見た目の平穏だけでは、足りない。
五つの世界線でも、最初は穏やかに見えた。市場の笑顔も、政務の秩序も――剥がせば別の顔があった。
だからこそ、見る。
コメント
1件
ああ、もうもうもう…っ、胸がいっぱいです😭💕 帝辛が縫季の笑顔を見て「そなたの笑顔を、初めて見た」「良い顔だ」って言ったところ、もう読みながら頬が緩みました。あのシーン、静かなのにすごく心揺さぶられるんですよね…。 そして侍従たちの会話で明かされる、この世界線では帝辛自身が黒闢を遠ざけたという事実。縫季が辿り着いた先が「帝辛が自然に笑って暮らしている世界線」だったという流れ、涙腺にきました。五つの世界線を旅した魂がようやく見つけた平穏かと思うと…もう😢✨ 「ありがとう」と震える光も、帝辛の「謝るな」「回復を願っている」という優しさも、全部が沁みます。Hp2さん、本当に丁寧で繊細な描写、ありがとうございます…!