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第74話 灰色の巫
政務の間は、宮の奥にあった。
縫季は控えの侍従に頼み、柱の影から立ち会う許しを得た。
帝辛は上座にいた。
左右に十数人の臣下が並ぶ。帳を広げる者、口上を述べる者、そのどれにも無駄がない。だが、帝辛が見ているのは帳面だけではなかった。
口上を述べる声の揺れ。帳を持つ手の、わずかなこわばり。隣に立つ者との、視線の逃がし方。
帝辛はそれらを、静かに拾っていた。
(……人を見ている)
縫季の胸が、小さく波立つ。
「東方の収支、数の上では問題ない」
帝辛の声は平坦だった。
「だが、現場を見た者に聞く。民の顔は、どうだった」
臣下が一瞬、言葉を失う。
「……は」
「帳の数ではない。顔だ」
沈黙が落ちたのち、臣下はゆっくりと頭を垂れた。
「……余裕は、あまり、なかったかと」
帝辛は頷く。
「ならば次の配給を早める。帳を整えるのは、その後でよい」
臣下が深く頭を下げた。
縫季は柱の影で、そっと息を吐く。
(……帳より先に、顔を問う)
記録より、現場を先に見る。
その順が、あまりにも帝辛らしかった。
帝辛が視線を動かした。
「玄誓」
短い呼びかけに、灰色の髪の巫が静かに顔を上げる。
(玄誓……聞いたことのない名だ)
氏族の系譜にはない。血筋のどこにも繋がらぬ名だ。
脇に控えた側近の一人が、わずかに眉を動かした。その視線はすぐ、灰の巫へ向かう。
「灰の巫殿」
声音は丁重だったが、ぬくみはなかった。
「政務の場です。あまり前へは出られぬ方がよろしい」
間に、かすかな張りが走る。
だが帝辛は、そちらを見もしなかった。
「玄誓。東方の祭祀の帳、欠けがあると言っていたな」
灰の巫は、側近の言葉など聞かなかったように答えた。
「はい。三箇所。いずれも、記録が薄い」
「原因は」
「……兆しです。まだ、確定ではない」
帝辛は頷いた。それ以上は問わない。
縫季は柱の影から、その巫を見た。
灰の巫装束。短く切られた灰の髪。だが視線は、人ではなく、場そのものの流れを見ている。
香を読もうとして、縫季はわずかに眉をひそめた。
読めない。
いや、読めはする。ただ、質が違う。
人の香ではない。かといって、灯台に連なるものとも違う。
(……人ではない)
(だが、何かを抑えている)
そのとき、灰の巫がわずかに首を巡らせた。
縫季を見た。
透灰の瞳。値踏みではない。ただ、見ているのでもない。
測るでもなく、裁くでもなく。ただ、そこにあるものを、そのまま受け取るような目だった。
すぐに視線は外れ、政務へ戻る。
縫季は柱の影で、静かに息を吐いた。
◆
政務の後、廊下には臣下たちの足音が満ちていた。
縫季は壁際に立ったまま、人の流れを見送る。
通り過ぎる視線が、一瞬だけ縫季に触れる。
値踏みだ。
声には出さない。だが、その目は問うている。
(どこの氏族だ)(系譜は)(なぜここにいる)
縫季は答えなかった。答える言葉を持っていない。
(……俺は、この線でも根無し草だ)
どの世界線でも、任務用に与えられた縫季の身分には、人界で辿れる系譜がない。
ただ、今の縫季には、その肩書すらもう曖昧だった。
有限化した体で、魂の端を燃やし、この線まで辿り着いた。
ならば今の自分は、何者なのか。
祭祀の灯火が、廊下の端で揺れた。
そのときだった。
人の流れの向こうを歩く、あの灰の巫の影だけが、炎と逆らうように、一瞬だけ揺れた。
ひとつではない。
九つ。
縫季は目を細めた。
(……気のせいか)
否。人の影が、ああは揺れない。
「……面倒な線に落ちたな」
低い声が、すぐ横を通り過ぎた。
振り向くと、灰色の髪の巫が、足を止めぬまま廊下を行く。こちらを見ない。立ち止まりもしない。ただ一言だけを落としていく。
縫季は、その背を見送った。
(……やはり、知っている)
何者かを。何がこの線に落ちてきたかを。
助ける気はない。だが、見ている。
そのとき、縫季の脳裏に、先ほどの影が焼きついた。
九つに揺れた影。人の輪郭に、収まりきらぬもの。
(九尾……)
名が浮かびかけて、そこで止まる。
尾を見せぬのではない。見せられぬのだ。
この線は、神話が薄い。天のものが、そのままの相で立てる場所ではない。だからあれもまた、人の形へ己を削っている。
それでも、隠しきれないものだけが、影に滲む。
縫季は胸の光に、そっと触れた。
温もりが返る。
(……まだ、足りない)
(もう少しだけ、見る)
夕暮れの廊下に、臣下たちの足音が遠ざかっていった。
コメント
1件
第74話、じっくり読ませていただきました。 帝辛の「帳より先に顔を問う」姿勢、あれが彼という人物の芯を一発で見せてくれて、縫季と同じく胸が波立ちました。記録より現場、数字より人の顔。統治者の在り方としてとても好きです。 そして何より灰色の巫・玄誓。影が九つに揺れる描写で「九尾」が脳裏をかすめた瞬間、世界観の奥行きが一気に広がりました。神話が薄いこの線で、己を人の形に削りながら立つ存在——縫季自身の有限化とも響き合っていて、設定の重なりが本当に巧い。香が読めない、でも「抑えている」と感じる感覚も、この二人の関係の独特さを象徴しているようでした。 面白かったです。続きが気になります。