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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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夕方まで、千歳は答えを探した。
見つからなかった。縁側に座ったまま、梢の湯呟みが空になり、お初が取り替えに来て、また空になった。梢は庭を見て、天井を見て、千歳を見て、扇を開いたり閉じたりした。
「お姉さま」
日が傾いて、梢が言った。
「返事」
千歳は膝の上の手を見た。
「取り替えることは……私には、決められません」
「どうして。あんたが戻ればいいだけじゃない」
「旦那様が」
言いかけて、その先が出なかった。旦那様が、何だ。あの人は、私の妻はこの人だ、と言った。使用人たちの前で。あれを、梢に言えばいいのか。言えば、梢は笑うだろう。穴埋めのくせに、と。
梢は笑わなかった。扇を閉じて、立ち上がった。
「じゃあ、いいわ」
縁側から庭へ下りた。草履を履いている。
「あたしがあの離れを見て、御堂様に教えてあげる。何を隠してるのか」
「梢」
「母様が言ってたもの。あの離れに何がいるか知れば、あの人だって、あんたを置いておけなくなるって」
梢は歩き出した。梅の木の列へ、まっすぐに。
千歳は縁側に座っていた。座っていられなくなった。
近づくな、と言われている。その言葉が、千歳の足を動かした。梢が、あの戸に手をかける前に。
草履を履く間もなく、千歳は裸足で庭へ下りた。
梅の木の間を抜けると、離れは思ったより近かった。
いちばん奥の一本の横を通る。幹の片側が黒い。窓から見ていたより、ずっと黒い。焦げた木の匂いが、三年経っても消えない匂いが、そこにあった。千歳は足を止めなかった。
古い建物だ。黒ずんだ木と、白い障子。夕方の光で、障子の中は見えない。灯りは、まだついていない。
梢は戸の前に立っていた。手を伸ばしている。
千歳は追いついて、その袖をつかんだ。
右手だった。考える前に出た手が、右手だった。痕のある手が、梢の明るい色の袖を握っている。
「近づいてはいけないと、旦那様が」
梢が振り返った。千歳の手を見た。
「痕のある手で、触らないで」
払われた。千歳は手を離さなかった。十年、梢に手を上げたことはない。叩かれても、引っ張られても、袖をつかみ返したことはない。今、つかんでいる。
「梢。戻って」
「離して」
「ここは、旦那様の家です。旦那様が、近づくなと」
「あんたの家じゃないでしょう」
梢は空いているほうの手で、戸に手をかけた。
戸は開かなかった。内から閉まっている。梢は舌打ちをして、戸と柱の隙間に、顔を寄せた。
千歳は袖を引いた。梢は引かれながら、隙間に目を当てた。
梢の体が、こわばった。
「……女」
声が出た。小さく。それから、大きく。
「女がいたわ! 若い女!」
障子の、内側で、何かが動いた。
灯りは、ついていなかったはずだ。それなのに、障子の向こうが、一瞬、明るくなって、すぐに暗くなった。誰かが、灯りを消した。見られたと思って、消した。
千歳は、そう思った。三日前の夜、窓から身を乗り出したときと、同じ消え方だった。
「梢。やめて」
「見たわ。あたし、見た。髪が長くて、白いものを着てて」
梢は隙間から顔を離して、千歳を見た。笑っていた。人前の顔ではなかった。
「御堂様、女を囲ってるのね。だから奥さんを寄せ付けないのよ。前の婚約者も、これを見て逃げたんだわ」
「帰れ」
母屋のほうから、声がした。
玲司だった。会社から戻ったところで、外套のまま、梅の木の間を歩いてくる。足は速くない。顔は、いつもと同じだ。
梢は千歳の手を振り払って、玲司のほうへ走った。
「御堂様。あたし、見ました。離れに、若い女が」
「帰れ」
玲司は梢を見なかった。梢の後ろの、離れの戸を見ていた。
「権田」
梅の木の向こうに、権田が立っていた。帽子を取って、頭を下げて、梢のほうへ歩いてくる。
「お嬢様。門まで、お送りいたします」
「触らないで。自分で歩けるわ」
梢は千歳を振り返った。
「母様に言いつけるから。離れのことも、あんたのことも、全部」
権田がついていく。二人の背中が、梅の木の向こうへ消えた。
千歳は、裸足で立っていた。
足の裏が冷たい。右手が、まだ梢の袖の感触を覚えている。
母屋に戻ると、お初が盥に湯を張っていた。
千歳は上がり口に座って、足を洗った。お初は何も聞かなかった。文は台所の奥から顔を半分出して、千歳の足と、千歳の右手を見た。
「奥様」
「なに」
「お嬢様の袖、つかんでましたね」
千歳は答えなかった。文は、それでも引っ込まずに、しばらく千歳を見ていた。いつもの、少し笑った顔が、消えていた。
「文」
お初が言った。止める声とは違っていた。
「湯を足しておやり」
玲司が廊下に立っていた。
「手を」
千歳は右手を出した。梢の袖をつかんだ手だ。甲の痕の上に、梢の爪が引っかいた赤い線が一本、ついていた。
玲司はその手を取らなかった。見ただけだ。
「痛むか」
「いいえ」
「……そうか」
離れのことは、言わなかった。梢が見たと言ったことも、本当に何かがいたのかも、何も言わなかった。千歳も聞かなかった。聞けば、あの人は答えるだろう。答えさせたくなかった。
玲司は窓のほうを見た。庭の奥。離れは、暗いままだ。今夜は、灯りがつかないのかもしれない。
「叔父が来る」
玲司は窓を見たまま言った。
コメント
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第8話、読み終えたわ。千歳が裸足で庭に出て、右手で梢の袖をつかむシーンがすごく印象に残った。「痕のある手で触らないで」って言われても離さないところ、千歳の必死さがひしひし伝わってきた。離れの中に女がいたっていう伏線も気になるし、玲司が「叔父が来る」って言ったところで終わる感じ、続きがすごく気になる。丁寧な和風の謎解き、面白いです!