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第6話 湯けむりの部屋
夜更けのアパートに、湯が沸く音がした。
「また、誰か入ったのね」
日野澪が二色の扉の前を通ると、湿った空気がふわりと肌を撫でた。
かすかな硫黄の香り。温泉の匂いだった。
翌朝、澪が廊下に出ると、
扉の前に男が立っていた。
薄い灰の浴衣に、濡れた髪を肩まで流している。
背は高く、目は琥珀色。
湯気をまとったような落ち着いた雰囲気で、
肌はどこか透けていた。
「おはよう。ここの湯、悪くないよ」
その声は低く優しく、空気ごと温めるようだった。
彼の名は湯崎遼(ゆさき りょう)。
昼は姿を見せず、夜になると湯を沸かしていた。
壁越しに聞こえる湯の音と、
静かな水の揺れる音が心地よく、
澪は知らず知らずその音を待つようになった。
ある夜、湯気がアパートの隙間から漏れ、
澪の部屋の中まで香りが流れ込んできた。
その香りに誘われて扉を叩くと、
中から遼が顔を出した。
「入りたいの?」
少し笑って、彼は手を差し伸べた。
中には本当に、小さな湯船があった。
畳の上に木桶を置き、湯気が部屋を満たしている。
「ここは不思議な場所なんだ」
彼が湯に指を沈めながら言う。
「湯に浸かると、忘れてた記憶が浮かぶ」
澪は黙って湯面を見つめた。 光がゆらめいている。
「あなたも、何か忘れたいの?」
澪が尋ねると、彼は目を伏せて微笑んだ。
「俺は、もうすぐ消える側だから」
その言葉が、湯よりも熱く胸に沁みた。
次の日、湯の音が止んだ。
扉を開けると、湯船は空になり、
湯気だけがまだ天井に漂っていた。
遼の姿はなかった。
ただ鏡の表面に、曇った指文字でこう書かれていた。
——「ここに長く住んではいけない」
澪は鏡を拭きもせず、その文字を見つめた。
そこに映る自分の顔が、少しだけ寂しそうに笑っていた。
二色の扉の紫がほとんど灰色に変わっている。
触れると、まだわずかに湯のぬくもりが残っていた。
その温度を、恋の残り火のように感じながら、
澪はそっと手を引いた。