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早朝の風が木の葉をくすぐる。
もう数時間すると、熱せられたアスファルトからの照り返しで目も開けられないほどの暑さになろうことは想像できた。
しかし、肌に触れる空気はひやりとしていて、まだ夜が明けて間もないことを示している。
小さな2階建てアパートの上階の廊下。
4つ並んだドアの、それは端から2つ目であった。
蝉の声が止むと、漏れてくる低い声が聞こえる。
出かけようと扉を開けたり、思い直して閉めたり。
そういった動作を繰り返している様子が窺えた。
時折見える扉の隙間には2人の人影。
早朝、であるにも関わらず声をひそめるでもない様子だ。
玄関先でイチャついている──かのように見えるが、これは少々違うようだ。
「有夏、2日分のキス」
「も、いいから! とっとと行けって」
玄関の取っ手に手をかけたり放したり。
靴を履いたり脱いだりしているのは、二十歳もそこそこの長身の男。
ワイシャツにチノパンという格好で、足元にはボストンバックが置かれていた。
「やっぱり俺、寂しい。離れたくないよ」
眼鏡を外して、大袈裟な仕草で目元を覆う。
すると廊下に立つ青年が、聞こえるように大きくため息をついた。
「幾ヶ瀬、もういいから。早く出てけ」
「出てけって…有夏が俺にそんな冷たいこと言う? 離れ離れになっちゃうのに」
「……ウザっ」
明らかに温度差がある。
有夏と呼ばれた青年が苛立ったように首を振るのも無理なかろう。
先程から、このやりとりが延々15分は続いている。
Tシャツと短パンという有夏の身なりから、彼が幾ヶ瀬の見送りに玄関まで出てきているのは察せられた。
やわらかな髪に寝癖はないが、長い睫毛を伏せたその顔はすこし腫れぼったく、寝起きだということが伺える。
「もっかい。いってきますのチュウしよ」
「は? キモっ!」
「でなきゃ、勃ったまま駅に行く」
「なにそれ、脅し? 幾ヶ瀬が恥かくだけで、有夏はべつにどうでもいいんだけど?」
「そんなこと言わずに、ちゅうぅぅぅ」
唇を尖らせながらにじり寄る幾ヶ瀬に、後ずさる有夏。
伸ばされた両の手に、ガシッと顔を挟まれる。
「ちょっ、痛い……」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃねぇし…ちょっ、やめ……んっ」
ついばむように軽く触れる口づけ。
唇が離れても、互いを求めるように何度も触れ合う。
触れては離れる唇がくちゅくちゅとたてる音、それから扉の向こうから聞こえる蝉の鳴き声だけが室内を満たした。
幾ヶ瀬と有夏はアパートの隣り同士だ。
狭いアパートの一室である幾ヶ瀬の部屋に、有夏が居候しているという形となっているのは、ひとえに彼の部屋が足の踏み場もないゴミ屋敷と化してしまっているからに他ならない。
ただのお隣りさん、ただの友だち、でないことは見ての通りだ。
「好きだよ、有夏。ね、有夏は? 俺のこと好き?」
「有夏は……うっ……」
穏やかな目に見つめられて、有夏はくちごもる。
こんな朝っぱらから好きなんて言えない──明らかに狼狽えた様子で視線が泳ぐ。
「い、いいから早く行けってば……」
「はぁい。いってきまぁす」
「へいへい。いってら」
細腰を撫でまわしながら恋人の肩に顎を乗せる幾ヶ瀬と、宥めるように相手の胸元をポンポン叩く有夏。
幾ヶ瀬は近所にある飲食店勤務である。
「ランチも充実 洋食レストラン」といった紹介文が合うだろうか。
その雇われシェフである彼の、今日は出張の日なのだ。
系列店の新規立ち上げに有名シェフが関わるそうで、視察兼手伝いを命じられたらしい。
「お昼はお弁当作ったから食べて。夕食はお鍋にシチューあるから。パンの場所は分かるよね。ああ、冷たいお茶は冷蔵庫にポットが入ってるよ。温かいの飲みたかったらお茶っ葉の位置、覚えてるよね。スプーン山盛り1杯を急須に入れてお湯を注ぐんだよ。エアコンで冷やし過ぎないようにね。お腹痛くなっちゃうからね。あと、誰か来ても玄関開けちゃ駄目だよ。変な人だったらいけないから居留守使って。それから、昨日言ったこと忘れないでよ。あ、使った食器は流しに置いといて。ガスの元栓に気を付けて……」
連絡事項・注意事項のマシンガン。
うっぜぇわ!
有夏が叫んで幾ヶ瀬の背を押す。
幼稚園児じゃないんだぞと。
玄関から押し出そうとする動きに慌てる幾ヶ瀬。
「待って待って。心配! やっぱり明日まで有夏を1人なんてできな……強盗に押し入られて……有夏かわいいから服を破かれて……強引に……」
「ハイハイ、朝から元気だな! ハイハイ、幾ヶ瀬がいなくてさみしいなっと。ハイ、お元気で! いってらっさい!」
「有夏ぁ……」
最後に1回だけと顔を寄せる男に唇を許し、有夏は今度こそ幾ヶ瀬の背を叩いた。
浮気しないで待っててねと尚も名残惜しそうな様子を見せながら、幾ヶ瀬はのろのろと玄関から出て、時折振り返りながら廊下を曲がって階段へ消えていく。
この早朝に珍しいことだが見送りに起きたのは、有夏にも多少の寂しさがあったからだろうか。