テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#恋愛
ばたっちゅ
20,352
なっつん🐶💚
237
まなこ〜友
189
ハレ_不定期投稿
46
土曜日の朝、私は自室の簡素なベッドの上で目を覚ました。
シーツに顔を埋めると、微かに上質なシトラスとサンダルウッドの香りが鼻腔をくすぐる。昨夜、深夜の間食を見破って私の部屋を訪れた神崎が、お仕置きとアロママッサージの後に朝まで私を背後から抱きしめていた確かな証拠だった。
「……夢じゃ、なかったんだ……」
まだ少し熱っぽさの残るお尻の感覚を思い出し、私は真っ赤になった顔を両手で覆った。
神崎はすでに自分のペントハウスへ戻った後だったが、ダイニングテーブルの上には、私の目を丸くさせるものが残されていた。
清潔なガラスの保存容器に綺麗に詰められた彩り豊かなサラダ、野菜たっぷりのミネストローネ、そしてしっとりとした自家製のローストビーフ。その横には、彼の流麗な万年筆の字で書かれたメモが添えられている。
『夜更かしをした罰として、今朝の起床時間は遅めに設定しておいた。俺の目が届かないからといって、またスナック菓子に手を出すなよ。土日は冷蔵庫に入れてあるものを温めて食え。睡眠スコアは九十六点だった。よく休めたな、いい子だ』
スマートウォッチを通じた二十四時間の見守りと、胃袋への徹底的な過保護。
最初はただの「行き過ぎた部下への体調管理」だと思っていた。だが、彼自身の過去の傷を打ち明けられ、彼の手料理を食べ、悪いことをした時は本気で叱責して抱きしめてくれる日々は、私の心に張られていた氷の鎧をいとも簡単に溶かしてしまった。
(こんなの……期待しちゃうじゃないですか、社長……)
私はローストビーフを一口食べ、そのあまりの美味しさと優しさに、泣きそうな顔で微笑んだ。
けれど、心の奥底にこびりついた「見捨てられ不安」は、完全には消えてくれない。彼のような雲の上の人間が、私のような生活力皆無の秘書を本気で愛してくれるはずがない。きっと私が秘書として万全に働けるようになったら、この甘い夢も終わるのだ。
そう自分に言い聞かせても、私の心はすでに、神崎の用意した温かい檻の中から抜け出せなくなっていた。
◆
週が明け、火曜日の昼下がり。
その日、神崎は朝から経済団体の重要な会食で外出しており、私は一人で最上階の秘書デスクに残り、午後のスケジュール調整を行っていた。
神崎の作り置き料理のおかげで体調も肌ツヤもすこぶる良く、私は完璧な「氷の秘書」として次々と実務を片付けていく。
しかし、給湯室へ来客用のハーブティーを淹れに行った時、私の平穏な日常は唐突に打ち砕かれることになった。
「ねえ、聞いた? 神崎社長の噂」
「うん、聞いた! 西園寺グループの令嬢と、いよいよ婚約秒読みだって話でしょ?」
給湯室のパーテーションの向こうから聞こえてきた他部署の女性社員たちのひそひそ話に、私の足がピタリと止まった。
「西園寺グループって、あの旧華族の超お嬢様!? まあ、うちの魔王様に見合う家柄といったら、それくらいしかないよねえ」
「社長ももう二十九歳だしね。会長夫人――社長のお母様が、熱心に話を進めてたらしいよ。あのご令嬢なら、語学も堪能で三つ星シェフ並みの料理もできるって噂だし、完璧な社長夫人になれるもんね」
――ドクンッ。
私の心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ねた。
「でもさ、最近社長、お昼休みになると社長室にこもって、誰とも面会しない時間作ってるじゃない? もしかして、そこでお嬢様とこっそり電話で愛を育んでたりして!」
「キャー、なにそれ素敵! あの冷徹な社長が、愛する婚約者には甘々だったりするのかなぁ」
給湯室から去っていく彼女たちの華やかな笑い声が、私の耳の奥でガンガンと反響する。
手に持っていたティーカップがカチャカチャと震え、私はその場にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。
(政略結婚……。西園寺グループの、ご令嬢……)
神崎ホールディングスほどの巨大企業であれば、代表の政略結婚は当然の責務だ。いずれそういう日が来ることは、筆頭秘書である私がいちばんよく理解していたはずだった。
『ブブッ、ブブブッ!』
その時、左手首のスマートウォッチが、警告振動とともに激しく震え始めた。
画面を見ると、『心拍数百三十五・過度なストレス反応を検知』という赤い文字が点滅している。私の激しい動揺を、手首の機械が正確に読み取っていた。
(い、いけない……っ! 社長の端末に通知が飛んでしまう……!)
私は慌てて洗面所の個室に駆け込み、冷たい水で顔を洗って、必死に深呼吸を繰り返した。
鏡の中の自分は、ひどく青ざめ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
お昼休みに神崎が社長室にこもっているのは、婚約者と電話をするためではない。この不器用な秘書に、手作りの三段重弁当を食べさせるためだ。
だが、彼に本物の婚約者ができれば、深夜に私の部屋に来て叱ってくれたり、お弁当を作ってくれたりするこの甘くて異常な「健康管理」も、すべて終わるのだ。
◆
午後三時。
社長室前の秘書デスクに戻った私は、無理やり感情を押し殺し、モニターの数字に没頭しようとしていた。
そこへ、専用エレベーターの重厚な扉が静かに開く音がした。神崎が会食から戻ったのだと思い、私が立ち上がって頭を下げようとした瞬間――。
「あなたが、白石琴音さんですね」
凛とした、しかし氷点下のように冷たく厳しい声がフロアに響き渡った。
顔を上げた私は、息を呑んだ。
そこに立っていたのは、神崎ではなかった。高級な薄紫色の訪問着を寸分の狂いもなく着こなし、神崎とよく似た切れ長の瞳を持つ、気品あふれる初老の女性。
神崎ホールディングスの会長夫人であり、神崎の母親――神崎凛子(かんざきりんこ)だった。
「か、会長夫人……っ! お疲れ様でございます。社長はただいま外出中でございますが……」
私は咄嗟に「氷の秘書」の仮面を被り、深く頭を下げた。
凛子は周囲の空気を凍らせるような足取りで私のデスクに近づくと、その鋭い視線で、私の頭の先からつま先までを値踏みするように見下ろした。
「用件は、あなたです。私の息子――蒼のことで参りました」
凛子は私のデスクの前で立ち止まると、冷ややかな笑みを浮かべた。
「最近、蒼が西園寺家との見合いの席を『今は個人的に世話を焼いている野良猫がいるから』という理由で断ったのですよ。……まさかとは思いましたが、その『野良猫』というのは、あなたのことですか?」
「え……っ」
私の顔から、サァッと血の気が引いた。
「仕事は有能だと聞いていましたが、私生活の自己管理は皆無で、先日ついに過労で倒れたそうですね。そして蒼があなたに手料理を与え、あまつさえその腕の時計で、健康管理という名のお遊びをしていると……私の耳にはすべて入っています」
凛子の視線が、私の左手首にある黒いスマートウォッチを鋭く射抜いた。
私は咄嗟に袖口を引いて隠そうとしたが、遅かった。
「勘違いしないでちょうだい、白石さん」
凛子の声が、一段と低く、重くなる。
「蒼は極端な責任感の持ち主です。五年前に自分が倒れた苦い記憶があるから、自分の道具である秘書が壊れかけたのを見て、一時的に修理を施しているに過ぎない。ですが、彼も神崎の人間。いずれは西園寺家のような、ふさわしい家柄の女性を妻に迎える義務があります。……ただの秘書の分際で、彼の個人的な情けに甘え続けられるなどと、身の程知らずな夢を見ないことです」
「ただの秘書の分際で」。
その言葉は、鋭い刃となって私の心の一番柔らかい部分を無残に抉り取った。
「蒼の時間は、神崎グループの数万人もの社員と家族の人生を背負う、尊いものです。一介の秘書の不摂生な生活を管理するために浪費していい時間など、一秒たりともありません。……あなたに少しでも彼を支える筆頭秘書としての誇りがあるのなら、自ら一線を引きなさい。そのみっともない監視用の時計も、すぐに外すことです」
凛子はそれだけを冷たく言い放つと、来た時と同じように優雅な足取りでエレベーターに乗り込み、去っていった。
残された私は、誰もいない静まり返ったフロアで、デスクの縁に手をついて立ち尽くした。
「……っ、うぅ……っ」
わかっていた。最初から、自分が一番よくわかっていたはずのことだ。
神崎が私を構うのは、五年前の自分を重ねた責任感と、優秀な右腕を失いたくないという経営者としての合理性からだ。
それなのに、温かい参鶏湯に、手作りの三段重に、深夜の優しい抱擁に、心が勝手に甘え、彼に依存してしまっていた。
(会長夫人の言う通りだわ。私なんかが、社長の貴重な時間を奪って、彼の未来の足枷になっちゃいけない……)
彼を心から尊敬し、愛しているからこそ、彼の輝かしい経歴の邪魔だけはしたくなかった。
私は震える指で、自分の左手首に巻かれた黒いスマートウォッチの留め具に手をかけた。
これを外せば、彼との「特別なつながり」はすべて切れる。
もう、心拍数が上がっても心配して飛んできてはくれない。美味しいお弁当も、甘いお仕置きも、優しい寝かしつけも、すべて終わるのだ。
「……今まで、ありがとうございました、社長……」
カチャリ、と小さな音を立てて、バンドが外れる。
手首からスマートウォッチが離れた瞬間、冷たい空気が素肌に触れ、まるで自分の体の一部をもぎ取られたような強烈な喪失感が襲ってきた。
私は涙を拭い、無人の社長室へ入って、スマートウォッチを神崎の執務机の上にそっと置いた。
そして、一枚の便箋を取り出し、震える手で丁寧な文字を綴った。
『神崎社長へ。これまで未熟な私の体調管理にお力添えいただき、誠にありがとうございました。おかげさまで体調は完全に回復いたしましたので、これ以上の私的な管理はご無用です。今後は一介の秘書として、本来の職務にのみ専念させていただきます。 白石琴音』
それが、私にできる精一杯のけじめだった。
私は逃げるようにして社長室を後にし、その日は午後の半休届を出して、誰にも行き先を告げずに会社を飛び出した。
◆
――その時の私は、まだ知る由もなかったのだ。
それから一時間後、会食を終えて社長室に戻ってきた神崎社長が、自分の執務机の上に置かれた「黒いスマートウォッチ」と「一枚の置手紙」を見つけてどれほど恐ろしい顔をしたかを。
のちに秘書課長からこっそり聞かされた話によれば、社長室に入った彼は周囲を見渡して私の姿がないことを悟ると、眉をひそめながら便箋を読み、デスクに置かれたスマートウォッチの画面をタップしたという。
装着が解除され、『心拍数:計測不能(オフライン)』と表示されている無機質な画面。
それを見た瞬間、神崎の端正な顔からスッと一切の表情が消え失せた。
「……私的な管理はご無用、だと?」
彼の大きな手の中で、厚手の便箋がクシャッと音を立てて握り潰された。
氷点下の冷気を纏っていた神崎の琥珀色の瞳の奥に、突如としてどす黒い炎――抑え込んでいた猛烈な独占欲と、執着の熱が燃え上がったのだ。
自分がどれほどの想いで、警戒心の強い私を少しずつ慣らし、胃袋から囲い込んできたと思っているのか。それを紙切れ一枚で勝手に終わらせるなど、彼にとって到底許せるはずがなかった。
「誰の許可を得て、俺の手のひらから逃げようとしているんだ……琴音」
地を這うような低音でそう呟いた神崎は、懐からスマートフォンを取り出すと、秘書課長へ直接内線をかけた。
「俺だ。白石の今日の午後の予定はすべて俺が引き取る。……ああ、それから明日の夜の『財界チャリティパーティー』だが、豪華客船の同伴者枠に、白石琴音の名前を登録しろ」
通話を切った神崎は、デスクの上のスマートウォッチを拾い上げ、獲物を追い詰める猛禽類のような冷たくも甘い笑みを浮かべていたという。
「自分の価値も、俺の執着の深さも、まだ理解できていないらしいな。……いいだろう。逃げ道など最初から存在しないということを、たっぷりと教え込んでやる」
――こうして、私の「ただの秘書に戻る」という儚い決意が、翌朝には木っ端微塵に打ち砕かれることになろうとは、この時の私は夢にも思っていなかったのである。
コメント
1件
第4話、一気に胸抉られました……。凛子夫人の「ただの秘書の分際」って言葉、刺さりすぎて泣きそうになった。琴音がスマートウォッチ外すとこ、本当に自分の一部を切り離すみたいで痛かった……。でも最後の神崎社長の豹変がやばい! 優しかった人がある意味一番怖い。「逃げ道など最初から存在しない」って、あの甘やかしは全部計算だったんか……って震えた。続きが気になりすぎます!