◇◇
「瑞記、怖い顔をしてどうしたの?」
いつの間にか考えに沈んでいたようだ。顔を覗き込まれながら、そう告げられた瑞記は、大げさなくらい驚いて体を震わせた。
その様子を見て、希咲が笑う。
「やだ、今びくってなってたよ?」
花が咲くような艶やかな表情だ。
瑞記は胸中に燻る何かがすっと消えていくような穏やかな気持ちを感じながら、苦笑いを浮かべた。
「希咲が驚かすからじゃないか」
「だって瑞記ったら何度呼んでも返事をしてくれないんだもの」
希咲が少し怒ったように頬を膨らませる。
「え? ごめん、気付かなかった」
「もう……次はないからね」
「ああ」
彼女と喧嘩なんて絶対ごめんだ。瑞記は両手を合わせごめんと許しを請う。
希咲は仕方ないなと、くすっと笑ってすぐに機嫌を直してくれた。
瑞記はほっとするのと同時に、不機嫌な妻の顔を思い出した。
(希咲は心が広いし明るくて優しい。それに比べ園香はどうしてあんなに頑なで暗いんだ。それに自分勝手だ)
昨日の妻と酷いのやり取りを思い出すと、収まっていた不快感がまたこみ上げて来る。その気持ちが顔に出てしまったのか、希咲が呆れたような声を出した。
「ねえ、また眉間にシワが寄ってるよ」
「あ、ああ……」
希咲は瑞記の眉と眉の間を、ほっそりした人差し指でツンとつつく
「本当に今日はおかしいのね。商談は上手く行ったって言うのに」
あと少しで契約が取れそうだった大口案件が、先ほど本決まりした。
希咲まで連れて九州まで来た甲斐が有ったというものだ。
「今夜はお祝いするんでしょ? そんな暗い顔じゃつまらなくなるよ」
「そうだね、ごめん」
瑞記は反省して気持ちを切り替える。
(そうだ。今は園香のことなんて考えてる場合じゃない。そもそもなぜ僕が彼女のことでこんなに悩まなくちゃいけないんだ)
今回の出張は希咲がわざわざついて来てくれた。彼女がクライアントを和ませてくれて、交渉の場の雰囲気がよくなったのが商談成功の一因だ。
「嫌なことは忘れて、楽しくお祝いしよう。良さそうな店を探しておいたんだ」
「本当に? 嬉しい」
希咲が機嫌を直してくれたようで、瑞記の腕をぎゅっと掴んだ。
ふたりの距離が近づき、希咲が纏う香が瑞記の鼻をかすめた。
女性らしく艶やかな香に、瑞記の鼓動が跳ねる。
「ん? どうしたの瑞記」
「い、いや、なんでもないよ。あ、この先の店なんだ」
瑞記は数日前から調べておいた、口コミで人気のダイニングバーを指す。
「あら、よさそうね」
「気に入ったならよかった」
「うん。沢山飲もう」
希咲の明るい顔を見ていると、癒される。瑞記も舞い上がるような思いで彼女の手を掴んだ。
「瑞記にいっぱい飲ませて、何を悩んでいるのか吐かせちゃうからね、覚悟してよ」
可愛くそんなことを言う希咲に、瑞記は目元を和らげ微笑んだ。
希咲との楽しいディナーを終えてホテルの部屋に戻ると、どっと疲れが襲って来た。
瑞記は寝落ちしてしまう前に、適当にシャワーを浴びる。
部屋の窓から外を眺める。特に綺麗とも思えない繁華街の夜景が映り、瑞記を憂鬱な気持ちにさせた。
希咲と過ごしている時間は楽しかったのに、こうしてひとりになると現実的な考えばかりが浮かんで来る。
窓の近くのソファに座りミネラルウォーターを飲んでいた瑞記は、億劫な動きでスマートフォンを手に取りメッセージアプリを開いた。
園香からメッセージが届いていると思ったのだ。
ところが彼女からは何の連絡も入っていなかった。
(あんな言い争いの後に謝りもしないのか?)
瑞記の気分はますます滅入った。
よく見ると園香からは半月以上メッセージが入っていない。
特に気にしていなかったが、随分と冷たい妻だと思った。
(普通、夫の体調を気遣ったりしないか?)
以前の園香はもっと優しい性格で、瑞記をたてていた。
瑞記の希望を聞き、受け入れていたのに。
(怪我をして記憶がなくなってからおかしくなったんだよな)
はじめは希咲との関係に口出ししなくなったと喜んでいたが、余計な悩みが増えてしまった。
園香は明後日から仕事に出ると言っていた。
反対したが園香は頑固に聞き入れなかった。恐らく予定通り明日出社するのだろう。
考えるとイライラする。瑞記はぎりっと歯ぎしりした。
(一体何が不満なんだ。生活費だって入れてるのに)
瑞記の両親も、ふたりの兄の家庭も、妻はみな家で家庭を守っている。
そんな環境で育った影響か、瑞記も妻には家事に専念して欲しい気持ちがあった。
それが瑞記にとって理想の結婚生活だ。
(園香を働かせているってばれたら、馬鹿にされる)
両親と兄が知ったときの反応を考えると、苛立ちが胸中に広がっていく。
これは失望からくる怒りだ。
園香と結婚したときは、ソラオカ家具店の社長令嬢が妻だなんて素晴らしいと、家族は瑞記を褒めたたえたと言うのに。
(最近のソラオカ家具店は落ち目だし、園香は勝手な行動ばかりで僕の実家への気遣いがないし、はっきり言って評価が下がって来てる。それに比べて希咲は完璧だよな)
瑞記を幸せにしてくれるのは希咲だけだ。
彼女といると仕事が成功するし、何よりマイナス思考にならずに済む。
(希咲に会いたいな)
笑顔の彼女の顔が浮かび、瑞記は微笑んだ。
とは言え、実際彼女の部屋を訪ねる訳にはいかないと分かってる。
疚しいことは無いとはいえ、瑞記も希咲も既婚だからその辺は弁えなくては。
「……そろそろ寝るか」
あれこれ考えても仕方がない。瑞記はソファから腰を上げベッドに入ろうとした。
そのとき、スマートフォンが振動した。
園香かもしれない。寝ようとしていたところに面倒だと思いながら画面を確認する。
直後、瑞記は固かった表情を和らげた。
「希咲、どうしたんだ?」
『あ、よかったまだ起きていて。今から瑞記の部屋に行ってもいい?』
電話越しの希咲の声は、わざと潜めているようなくぐもったものだった。
「何かあったのか?」
『ううん、大したことじゃないんだけどね。今夜は瑞記の部屋に泊めて貰おいたいと思って』
さらっと告げられた言葉に、瑞記は驚愕する。
「え? そ、それはさすがに……」
『迷惑なの?』
「い、いやまさかそんな訳はないよ! ただやっぱりまずいだろう? 俺たち一応既婚者だし」
希咲の声が沈んだ気がして慌てて弁解する。
『それは分かってるけど、隣の部屋の人がなんか怪しいの。中年の男の人なんだけど、何度も出入りして大きな声で独り言を言ってるのが聞こえて来るし』
「そんな男が?」
瑞記は息を呑む。
希咲の部屋は瑞記の二階上のフロアの同じビジネスシングルルームだ。
壁はそれ程薄くない。にもかかわらず声が聞こえるなんて、どれ程大声で騒いでいるのか。
(最近は物騒な事件が多い……軽く考えてもし彼女に何かあったらどうするんだ?)
しばらく考えて瑞記は決心した。
「分かった。危ないからその部屋に居ない方がいい。今から迎えに行くから」
瑞記は決心して、そう答えた。
今は非常事態。人の目を気にしている場合じゃない。
『ありがとう。瑞記がいてくれてよかった』
希咲のほっとした声に頼られているのを実感した。
「すぐに行くから、部屋から出たら駄目だよ」
瑞記は急ぎ部屋を出て、エレベーターホールに向かったのだった。
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