コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「瑞記ありがとう」
急ぎ希咲の泊まる部屋に行くと、彼女はほっとした様子で瑞記に寄り添った。
心細さを感じていたのだろう。
(よほど怖かったんだろうな)
彼女にこんな思いをさせるなんて許せないと、瑞記は隣の部屋のドアを睨む。
今は希咲が訴えていたような物音はせず静かなものだが、それは瑞記の存在に気付いているからかもしれない。そうではないとしても不安がある以上彼女をひとり残す訳にはいかない。
「希咲、僕の部屋に行こう。荷物はそれだけで大丈夫?」
「うん、とりあえずは。残りは明日の朝でいいわ」
「そうか。じゃあ行こう」
瑞記は希咲の肩を支えてエレベーターに向かう。待たずに乗り込み二フロア下に降りた。
「ごめん、ちょっと散らかっているんだけど」
希先を部屋に入れてから、慌ててベッドの上やテーブルに置きっぱなしにしてある服やペットボトルを片付ける。
そんな瑞記を見て希咲はくすりと笑った。
「そのままでいいよ? 私、全然気にしないもの」
「そうか? でも希咲は綺麗好きだろう?」
オフィスの彼女の机はいつでも綺麗に整頓されている。
瑞記は片付けが苦手だが、オフィスは希咲に倣って物を散らかさないように気をつけている。
「本当に大丈夫だって」
希咲はにこりと微笑み、羽織っていた薄手のコートを脱いだ。彼女がレインコート代わりにしている紺色のそれが、ふわりと床の上に落ちた。
「ほら、私もプライベートでは結構適当なんだよ?」
「あ……」
コートに向けていた視線を上げた瑞記は思わず息を呑んだ。
「あら瑞記、どうしたの?」
「希咲……その服は」
彼女が身に着けていたのは、白いワンピースだった。襟元と袖にフリルがある女性らしいものだが、とにかく生地が薄いようで下着が少し透けて見えてしまっている。
てっきり普通の服を着ていると思っていた瑞記は、希咲の初めてみる刺激的な姿に激しく動揺していた。
「服?……ああネグリジェが珍しい? 私フリルとかレースが好きなんだけど、なかなかビジネスシーンには取り入れられないじゃない? せめて眠るときくらいは好きな恰好をしたいと思って」
希咲は下着が透けていることに気付いていないのか、平然としている。けれど瑞記の態度を不自然に感じたのか顔を曇らせた。
「変かな?」
「い、いや似合っているよ。ただ少し驚いただけだ」
(そうだよな。慌てて避難して来たんだから、着替える暇なんてなかったんだ)
コートの中がネグリジェでも何もおかしくない。
意識し過ぎている瑞記の方に問題があるのだ。
とは言え、華奢な体型のわりに豊かな胸や、滑らかな肌が視界に入ると平然とはしていられない。
(参ったな……目のやり場がない)
「ねえ、コーヒー淹れようか?」
「あ、ああ。俺がやるよ」
「ううん。大丈夫だから瑞記はゆっくりしていて」
部屋に備え付けのコーヒーメーカーの準備をしている希咲の後ろ姿を見つめながら、瑞記は額に手を置き項垂れた。
希咲は大切なビジネスパートナーだ。それなのにときどき彼女を意識してしまう。
今も……いつものような自然な会話が出来ないくらいは、瑞記の心の中は乱れていた。
(はあ……僕は何を考えてるんだ)
これでは園香のバカな妄想が現実になってしまう。
『瑞記、名木沢さんと不倫しているの?』
引きつった顔でそう言われたのはいつのことだっただろうか。
仕事が忙しく帰宅出来なかったある日、ようやく自宅に帰って来られたかと思ったら、思い詰めたような顔をした園香にそう言われたのだ。
もちろんすぐに否定したが、園香は信じようとしなかった。
それどころか、おどおどしながらも、瑞記と希咲を引き裂くような発言をし始めた。
『瑞記、名木沢さんと付き合うのは仕事だけにして』
もちろん瑞記が応じることはなかったが、とにかく不快だった。
今思い返すと園香との間に溝が出来たのは、その出来事がきっかけだったような気がする。
仕事に理解がないだけではなく、邪推して瑞記と希咲の名誉を傷つけた園香に対して強い怒りを抱いた。
(証拠もないのに的外れな妄想で騒ぐ園香を軽蔑していた。でもこのままでは本当に後ろめたい関係を持ってしまいそうだ)
それくらい希咲は美しい。
だからと言って、不適切な関係になるつもりはない。
(絶対に問題を起こす訳にはいかない)
「お待たせ。ブラックでよかったよね?」
「あ、ああ……」
希咲の言葉に動揺して思わず頷いてしまったが、瑞記はブラックコーヒーが苦手で、必ずミルクを入れている。
それは行動を共にしがちな希咲だって知っているはずだ。
(珍しく勘違いしたのか?)
「瑞記どうしたの?」
心配そうな顔をした希咲が、ベッドの端に腰を下ろす瑞記の隣にそっと座った。
「険しい顔をしていたけど、何か心配事があるの?」
「いやそうじゃないけど……いろいろ考えちゃってさ」
希咲に余計な心配をかける訳にはいかない。瑞記は慌てて笑顔を見せる。
「ああ……分かるよ。私も最近はいろいろ考え込んでしまうから」
「希咲が? 何かあったのか?」
仕事は順調だ。ということは彼女の夫と間にトラブルが起きたのかもしれない。気になるものの夫婦関係という最もプライベートな内容だけに聞きづらい。
瑞記が希咲の夫に関して知っているのは、世間一般に知られている表面上の情報だけだ。
希咲は少し寂しそうに目を伏せた。
「何もないよ。でも……私たちってこのままでいいのかなって、ときどき考えこんじゃうの」
「私たち?」
「私と瑞記のこと」
希咲の大きな瞳が、瑞記の目を真っ直ぐ捕らえた。
瑞記はごくりと息を呑む。ドクンドクンと自分の心臓の音が聞こえて来るような気がする。
「……ぼ、僕たちの関係? よいビジネスパートナーだと思ってるけど」
「そうだね。パートナー。でも瑞記は本当にそれだけだと思ってる? 私はただの仕事仲間?」
希咲はそう言うと口を噤む。瑞記の答えを待っているのだ。
「もちろんただの仕事仲間だなんて思ってないよ。もし仕事で関わりがなくても希咲は僕にとってかけがえのない大切な存在なんだから」
嘘偽りない瑞記の本心だった。自分にとって希咲が一番大切で必要な存在だ。ただ置かれている環境がその気持ちを言葉にすることを許さない。
(彼女はどう思ってるんだ? もし同じ気持ちでいるなら……いや、そんな事を考えてはだめだ)
「希咲、そろそろ休んだ方がいい。君は少し飲み過ぎたし怖い思いをして動揺しているんだ」
「本当にそう思ってるの?」
依然として瑞記から目を逸らさない希咲は、瑞記の心の奥底を見透かしているようだ。
「ほ、ほら、もう寝よう。希咲がベッドを使って。俺はそこのソファで……」
空気が張り詰めている。
あと少しで何かが変わってしまいそうな、そんな予感を覚えて瑞記は希咲から先に目を逸らし、腰を下ろしていたベッドから立ち上がろうとする。
けれど希咲の手が瑞記の腕を強くつかんだ。
「ごまかさないで! 私達いつまでも自分の気持から逃げてたら駄目だよ。そうでしょう?」
瑞記の体を不安が駆け巡る。感情のまま流されて進んではいけない。残された理性が強烈にそう忠告しているのだ。
「希咲、これはよくないよ、僕は……」
「よくないのは、いつまでも自分を誤魔化すことじゃないの?」
「でも……」
「瑞記は私が好き? 答えないで誤魔化したら嫌われていると受け止めるから。そうしたらもう瑞記とは会えないね」
希咲の声が、突然低く冷たいものに変わった。それはきっと彼女の本気の表れだ。
瑞記は衝撃を覚え大きく目を見開いた。
(希咲が僕の前からいなくなる?)
それだけは絶対駄目だ。彼女がいなくなるなんて耐えられない。
「ぼ、僕は……希咲が好きだよ! 誰よりも愛してるんだ……でも言っては駄目なんだ、仕方ないだろう?」
驚くくらい大きな声を出していた。これまで希咲の前でこんな風に感情的に叫んだことはない。自分を抑えられないところを見せてしまったと瑞記はたちまち後悔に襲われたが、希咲は軽蔑するどころか、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「瑞記、嬉しいよ。ありがとう本当の気持を言ってくれて」
ほっそりした腕がそっと瑞記の背中に回る。
希咲の温もりが伝わって来て、瑞記はもう何も考えられなくなった。
世間体や倫理観なんて言葉は頭から消えている。両親と兄弟のことも、妻のことも頭の中からは消えていた。今はただ腕の中の愛しい人だけを感じていたい。
「希咲……愛してるよ」
「ふふ……嬉しいよ」
愛らしい声で囁かれて、瑞記は堪らない気持ちになり、希咲の体をベッドに押し倒し組み敷いた。