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常世とこよとは現世うつしよと対なる世界を指す。
神々の住まう高天原たかまがはら、海中の理想郷竜宮城、死者たちの集う黄泉の国、とにもかくにも現世でなければ常世と呼んで相違そういない。
永久に変わらない神域は変化に乏しく退屈しがちだ。四季の移ろう儚はかなさをあはれんだところで、それは他ならぬ僕自身が天候を司っているからであり、意外性の欠片も無い。雨も風も雪もなにもかも、全てが予定調和である。
だからこそ自分の住まう常世の一画で数匹の猫を養うことにした。猫たちに天候を左右できる神通力を授けて、予測のできない日々を楽しむのだ。
なにより猫は愛くるしい。他の理由は正直なところ後付けだ。猫、可愛いよ、猫。
◆◆◆
春の早朝は心地良い。箒を片手に空を見上げると、どこまでも青が広がっていた。顔を出したばかりの陽の光も柔らかい。こんな日は仕事をサッと終わらせて、午睡ごすいを楽しむのがいいだろう。これぞ在宅ワークの利点。自分へのご褒美があれば頑張れるというものだ。
掃き掃除を終わらせ、いそいそと仕事部屋へと向かう。襖ふすまを開ければ青畳の澄んだ香りが出迎える。窓辺に置いた文机ふづくえの上ではハルが眠っていた。陽で温まった文机は丁度いい寝床なのだろう、仕事で使う巻き物が広げてあってもお構いなしだ。ゴザのようなものとしか思っていないのではないだろうか。「ハル、おどきよ。僕は仕事をしなくてはならないんだ」 優しく呼びかけても尻尾一つ、動かさない。ふにゃんと微笑むように眠っている。蜜柑にも似た明るい茶のトラ模様へ手を伸ばす。僕が朝の掃除をしている間もここで眠っていたせいか、干した布団のようにあたたかい。頭から尻尾へと手を動かすと、ハルはもっと撫でろと言わんばかりに丸めた体をぐんと伸ばす。こんなにも愛らしい仕草を見せられてはご要望に応えねばなるまいて。撫でり撫でりと幾度か繰り返していると、胸中に芽吹いた欲望がみるみるうちに花開く。耐え切れず文机へ――正確にいえばハルの腹へと突っ伏した。もふっとした肌触りに頬を擦り寄せる。右を向けば摘みたての綿のようなふわふわ感、左を向けば毛羽だったポリエステルのチクチク感。この差が堪たまらない。左右に首を振り続ければ、そこはかとない香ばしさを胸一杯に吸い込める。やはり一日の始まりには猫は必須だ。僕の奇行もとい衝動的な行動もハルは慣れたもので嫌な顔一つせず眠り続けている。ありがたいかぎりだ。「これだから春は眠いんだよなぁ……」 しばし目を閉じぽかぽかとした陽気の中で微睡まどろんでいく。午後までこの天気が続いたらさぞかし気持ちの良い午睡を味わえるに違いない。期待に胸を膨らませながら、うつらうつらとハルの寝息に呼吸を重ねていく。
◆◆◆
――ハッと我に返り、上体を起こす。頭から桜の花びらがはらはらと舞い落ちた。うっかりと眠ってしまったらしい。一体何時になってしまっただろう。窓の外を見てみると、桜の木の奥に広がる池で蓮が満開になっていた。蓮は午前中に咲いて、午後には閉じてしまう花だ。もう10時は過ぎてしまっただろう。せっかく早起きをしたというのに無駄にした。仕事の一つも片付いていないではないか。慌てる僕とは対照的にハルはまだまだ夢の中にいるらしい。桜の花びらに埋もれることこそ至福であるといわんばかりだ。僕もこうだったのかと若干の気恥しさを覚えながら、花びらを一片ずつ拾い集める。ごめんよと声を掛けて、文机から膝の上へと動かした。
さて、ようやく仕事を始められそうだ。気を取り直して広げたままの巻き物を確認する。涎よだれの跡があろうものなら、さすがに猫のせいにはできないだろう。幸い、紙のよれや汚れはなさそうだ。 さりさりと墨を磨すって筆を走らせる。まずは日付、次に日出の時間を書き記す。
続いて風の向き、温度、強さ、連動する雲の量も忘れずに。十把一絡じっぱひとからげに『晴』とだけ書けばいいってものじゃない。一日たりとも、いや一分一秒たりとも同じ空模様はないのだから。丁寧に丁寧にそれこそ綺麗好きな猫の毛繕いのように入念に。来きたるうららかな春の一日を綴っていく。蓮の花の軽やかな甘さが穏やかな風に乗って部屋を通り抜けた。部屋の片隅にあるキャットタワーのてっぺんにも、きっと春を告げてくれただろう。
音もなく時間は過ぎる。ふいに文机の端に立てかけている丸い鏡がチカチカと明滅めいめつした。八咫鏡やたかがみは現世でいうスマートフォンの代用品として重宝しているもので、軽く手をかざすと僕ではなく遠方の知人の顔を映してくれる。「やあ、何か用事かい?」 にこやかに微笑んでみたが内心、憂鬱である。在宅ワークの僕にわざわざ連絡するとすれば大抵は仕事の話だ。それも面倒で厄介な内容に違いない。
曰いわく、僕に来年度の組織配置企画を任せたいとのこと。予想通り芳かんばしくないお願いだった。大げさに眉を下げて、口をへの字に曲げてみる。「僕はいわゆる人事の仕事は向いていないんだ。国譲りの時に懲こりたよ」 過去の苦々しい経験が頭に浮かぶ。
葦原中国へ誰を派遣するかの人事で八百万やおよろずの意見をまとめるのにも手を焼いたし、どうにか任命した相手は3年経っても帰ってこなかった。一度だけならまだしもその次も失敗した時は誰にも顔向けできなかったものだ。あんな経験は二度とごめんだ。ここで現世の天気を決める仕事だけで十分である。
どうにか諦めてもらおうと、切々と語りかけた。キリの良いところでこちらが話を終わらせようとしても食い下がられる。「はぁ……。猫の話なら続けてもいいよ」 苦し紛れに話を逸らすことにした。お互いにお互いが愛猫家だと知っている。思惑通り、相手はすぐに食いついてきた。こうなればこっちのもんだ。上機嫌にうちの子自慢をさせてもらおうか。「そうだよ。子猫を飼い始めたんだ。晴・曇・雨・雪・雷・風・霧きり・霜しもはもう、神猫として祀まつられてて忙しいからね、今飼っているのはその子供たち。みんな可愛いよ。うん、確かに君の言う通り、ここの気候はいつも混沌としていて安定しないけれど、慣れてくれたみたいなんだ。……あはは、仮にも気象神社に祀られている神様だよ? 猫の健康に悪影響を及ぼす天候にはならないように気をつけてる。その辺りは抜かりないさ」 猫の話となると口が軽い。立て板に水と言わんばかりに朗々と語り続ける。膝の上のハルを撫でまわしながら、この手触りの良さについても語るべきだと頭を高速回転させて論文を組み立てた。うまく話題を運んでいこうじゃないか。当然ながら適度に相手の猫話を聞くのも楽しんでいこう。「いいんだよ。天気は気ままでも仕方ないって諦めてもらえるから、猫任せくらいでちょうどいい。――いやぁもちろん仕事の邪魔ばかりさ。君を見習ってパソコンやらタブレットやらのデジタル環境にしたら少しは良くなるのかな? ――へえ? キーボードの上でお昼寝? 変なボタンを押しまくり? 名簿を管理するソフトっていうのがあるんだ。それで縁結びの相手が大変なことにねぇ。あはは、どうにかなったのならいいじゃないか。猫のいたずらはいつの時代も変わらないね」 喋り過ぎたのか喉が渇く。日差しが痛いくらいに熱くなっており今にも肌を焦がしそうだ。そればかりか、どこからともなく蝉せみの鳴き声が聞こえてくる。夏の到来だ。ハルは日陰を求めて膝の上を去っていく。代わりに文机へナツが飛び乗った。途端に雨雲のような灰色の毛が視界を覆う。話し声のする鏡へふんふんと鼻を鳴らしながら覗き込み、鏡の中や裏面に誰かいないのかと探りをいれているようだ。可愛い可愛いと鏡越しにはしゃぐ声が唐突に途切れた。ナツが何かしらの操作を行ったらしい。
あっと声を出すが、すぐに浮いた腰を落ち着ける。仕事の話は済んでいるし、かけ直す必要もないだろう。
ナツは興味を失くしたのか、くるりと振り返ってにゃあと鳴く。「おなかすいたの?」 返事は同じだ。にゃあにゃあと抗議の声が鳴りやまない。一度こうなったら欲求が満たされるまで騒ぎ続けるとよく知っている。昼も過ぎただろうし頃合いだろう。「分かった分かった。ちゃんとあげるから」 立ち上がり、廊下へ出る。
陽の当っていない常夜とこよの廊下はひんやりと冷たくて気持ちがいい。ナツがさっさとついてこいと言わんばかりに尻尾を立たせて先導し始める。こうして後をついていきながらきちんと見ていないと、何をしでかすか分からない。この間のように金魚鉢をひっくり返されるのだけは勘弁だ。ナツが常夜の廊下で粗相をすると、決まって大雨が降るのだから。 ナツに続いて台所へと到着する。戸棚にあるキャットフードを取り出して、近くのエサ皿へさらさらと流し込む。エサ皿の前で待ち構えていたナツが背中を丸めて食べ始めた。その様子を後ろからじっくりと眺める。ポイントは必ず腰を落とし、ナツの頭が見えなくなる角度。猫背のお山に長い尻尾、それ以外は何も見えない、この角度こそ至高なり。夏の青空に浮かぶ入道雲が一瞬で灰色に変わり夕立を振らせてくる、そんな光景が見えるようだ。実際ナツは元気いっぱいに遊び回るタイプでカーテンや網戸によじ登っては、眠る僕の腹へと勢いよく着地したりする。もしもナツが生粋の狩人だったなら僕は何度狩られていたか。カリカリとフードを食べて成長する背中を見ては大きくなってほしいと思う反面、これ以上体重が増えたナツが闇討ちしてくるのかと空恐ろしくなる。 それはさておき、そろそろ自分の食事を用意しなくては。猫の尻と尻尾なら何時間でも見ていられるけども、午前にうたた寝したツケを払わなくてはなるまいて。暑くなってきたことだし、キンと冷えたざる蕎麦を啜るのも乙なものであろう。
水の入った小鍋を火に掛け沸くのを待ちながら、カンナと一本の鰹節を用意する。軽く叩いてみれば拍子木にも似たよく通る音がした。布巾で軽く拭ってから、鰹節を削っていく。削りたての鰹節の香りにつられてか、ナツが足元に擦り寄ってきた。「ほんの少しだけだよ。他の子にもちゃんと――」 突如として背中を押される。はずみで手が滑り、削り箱の中からパラリと鰹節粉が宙を舞い、足元のナツへと降り注ぐ。僕を見上げていたナツの目がらんらんに輝いていた。例えるなら空からお札が降ってくるくらいの幸運、まさに青天の霹靂へきれきだろう。
再び背中を押される。僕の背中に飛び乗った犯人が、鰹節粉まみれのナツへと襲い掛かった。ナツに負けず劣らずおてんばさんな三毛猫のアキだ。勇猛果敢に挑みたいアキ気持ちは分からなくもないけれど、ナツが全身の毛を逆立てて怒る気持ちもよく分かる。「こらこら、喧嘩はおやめ。君たちが喧嘩をすると野分のわきが同時に二つも現れてしまうのだから。ね?」 どうにか仲裁するとアキは台所を飛び出してしまった。私は悪くないと思っているに違いない。あれはしばらく行方をくらませるだろう。アキは神出鬼没で僕が探している時にはいつもいなくて、そのくせ気が付けば喉を鳴らしながら擦り寄って撫でろ撫でろと催促する。まさに自由奔放なお姫様といった具合だ。つるっとした手触りの毛並みに触らせてくれるかもアキの気分次第なので、ついつい甘やかしてしまう。
そんなアキに振り回されたナツはせっせと毛づくろいをしては手についた鰹節粉を舐めとっている。余程味が気に入ったのだろう、普段はもっと上品な顔で毛づくろいをするのに今は目を見開いて何度も舌を這わせていた。ちょっと怖いくらいだ。自然と僕の口元が綻ほころんでしまう。あんなに必死になるくらいだから、さぞかし美味しいに違いない。鼻歌まじりに出汁だしを取る。
思った通り、今日の蕎麦は格別に美味しかった。俗っぽく言うなればここ二百年で一番の出来――なんてね。
◆◆◆
食器の片づけをして仕事部屋へ戻る。文机の上にはあいかわらずハルが居て、うとうと微睡んでいた。夏の日差しは早々に過ぎ去ったのか、窓の向こうの景色も秋の色へと様変わりしている。桜紅葉さくらもみじとはよく言ったもので、艶やかな紅の葉が風と踊って大地に気ままな抽象画を描いていた。燻いぶした土のにおいのする風が肌寒いのかハルはくしゃみを一つして体を起こす。にょいーんと餅のように体を伸ばしてから部屋の隅にある猫用こたつへ潜りこんでいった。半ば押し出される形でひょっこりと黒い耳が姿を見せる。ふっさふさの長毛猫、名前はフユだ。体のほとんどは黒いけれど、白い靴下を履いた毛並みのおしゃれさんである。飼っている猫の中で一番静かに歩く上、用事のある時にしか鳴かない静かな子だから、踏みつけないよう銀の鈴をプレゼントした。鈴があんまり小ぶりなせいで長い毛に埋もれ、ほとんど見えないのはご愛嬌。
フユはのそのそ畳の上を歩いて襖の前まで移動する。それからジッと僕を見つめてにゃあと一言。「はいはい。今行くよ」 我が物顔でフユが出ていく。しっかり見送ってから襖を閉め、文机へと戻る。さあ仕事だ仕事。午前の内に終わらせるつもりだったのに、しっかりやらなければ。
筆を執って僅わずか数分後、にゃあと襖の向こうからフユの呼ぶ声がした。「はーい」 筆を置いてフユをお出迎えする。フユは部屋に入ってくれたが僕はしばらく襖の前に立つ。案の定3分もしないうちに襖を開けろとにゃあと鳴いた。これを何度も繰り返す。4度目にもなると、フユは廊下から部屋を覗いてどっちつかずの態度を取って僕を困らせる。「お入りよ。君のせいで隙間風が寒くてかなわない」 しびれを切らして抱きかかえ、そのまま文机に向かえばフユは膝の上でごろごろと喉を鳴らしはじめるではないか。まったく……。最初からこうしてくれればいいのにと思わずにはいられない。しかしその気持ちもフユを撫でていれば落ち着いてくる。もしも雪が冷たいものではなかったら、フユの毛並みは新雪そのものだ。さらさらと柔らかくて優しい指通り。幼子が初雪の朝に歓喜するのと同じく、いつだって新鮮な喜びに気付かせてくれる。
そんなもふもふを心ゆくまで味わってから再び書き物を始めた。
◆◆◆
どれくらい経っただろうか。
窓の向こうにアキが現れて、器用に窓を開けた。途端に冷たい木枯らしが入りこみ思わず身震いをする。アキは文机の上にポトリと松ぼっくりを落とす。はてさて松の木なんて、この世界のどこに植えただろうか。僕よりもアキの方がよっぽど物知りなのかもしれないな。礼を言って引き出しにしまう。どんぐりやオナモミなど引き出しの中は猫たちがそれぞれ見つけてくれた宝物で溢れている。まあ、さすがに生き物の類たぐいは保管できないけれどできるかぎり大事に保存したいのだ。 窓をぴしゃりと閉めて立ち上がる。じきに日が暮れ、宵よいの口には雪が降るかもしれない。
そろそろ夕餉ゆうげの支度でもしよう。足元にたむろするアキとフユをあやしつつ、こたつの方に声を掛けてみたがハルの出てくる気配はない。天の岩戸に閉じこもった彼女を彷彿ほうふつとさせるけど、お腹が空いたら出てきてくれるから心配は無用だ。襖は一匹分の隙間を空けたままにして台所へと向かう。 今宵は雪見障子越しの景色を楽しみながらこたつで七草粥でも食べようか。手早く作って移動する。
盆を手に縁側を歩き始めてすぐ異変に気付く。軒下のきしたには風鈴が下がり、淡く光る蛍が目の前を横切った。足元にはご丁寧に蚊取り線香が用意されている。「ありがとうナツ。風流だね」 呼びかけると床下から何食わぬ顔でナツが出てきた。相変わらずナツの愛情表現は婉曲的なのに押しが強く、縁側に腰を下ろせば僕のつま先の上で丸くなる。せっかくならスイカや素麺そうめんでも食べればよかったなんて思いつつ、七草粥を口に運ぶ。真夏の夜に食べるものじゃないなと額に浮かぶ汗を拭っては、どうにかこうにか完食した。 草繋がりで今宵は菖蒲湯しょうぶゆに浸かる。用意をしている段階で、においがどうも気に入らなかったらしい猫たちはめいめいに逃げ出した。おそらく柚子湯にしても同じ末路を辿りそうだ。のんびりと湯船に浸かり一日の疲れを癒す。流れるように布団に潜り込み眠ってしまえたら最高だろう。先見の明がある僕は風呂へ入る前に布団を敷いておいた。したり顔で寝室へ赴おもむく最中、ハルがどこからともなく現れ体を擦なすりつける。菖蒲湯は春の行事だからだろうか、僕が新しい年中行事をしてみせると大抵その季節に合った猫が一番に受け入れてくれるのだ。そんな小さな発見がたまらなく嬉しい。厚意に甘えてハルを抱きあげると、どういうわけか胸を蹴り飛ばして床へと着地し、寝室の方へと走っていってしまう。知恵ものと言われた僕でさえ、まだまだ猫は理解できそうにない。ハルを追って寝室へ入れば、すでに4匹の先客が布団を占拠しているではないか。「僕はどこで眠ればいいのだろう」 そんな言葉を溢しつつ、ふと猫を数え直す。ひい、ふう、みい……4匹だ。
ハルとナツ、アキ、フユ。――1匹足りない。そういえば今日は一度も姿を見ていなかった。おおごとではないけれど念の為探しに行くとしよう。
名前を呼びながら家を歩く。あの子は仕事部屋にあるキャットタワーのてっぺんがお気に入りで、いつもそこから僕や他の猫を見下ろしている。
襖を開けてすぐのこと、文机の上に一際ひときわ深い闇がある。パチリと明かりをつければ眩しそうに目を細めるソラがいた。全身真っ黒な毛並みもさることながら、その短い手足は反則級の可愛さだ。他の4匹よりも歩幅が狭く、皆で並んで歩いているところを観察するとソラだけちょこまか忙しないのがよく分かる。ソラの足跡だけは見分けられる自信がある、そう……文机いっぱいに押し付けられた足跡は、間違いなくソラのものだ。硯すずりと筆は真っ黒な飛沫しぶきをまき散らして畳の上に転がっている。うん、これは間違いなく僕の不注意だ。出しっぱなしにした僕が悪い。「ソラ……お風呂で綺麗にしよっか……?」 一目散にソラが駆け出した。僕も慌てて廊下へ飛び出し後を追う。
長い廊下には短い手足で駆け抜けた跡が続いている。あぁ、もう大変だ。よりにもよって天気を記す為に使っている特別な墨で常夜の廊下を汚すなんて。下界にどんな影響を及ぼすか分かったものじゃない。一刻も早く捕まえなくちゃ。「待ってよソラー!」
◆ ――天気はいつでも気まぐれ猫たちの心次第。
今宵の空は流れ星が降り注ぎ、猫の早さの風が吹く。
夜空に浮かぶ黒い雲が猫の足跡の形に見えるのは気のせいではないだろう。