なーご、なぁーご
飯くれよ、とばかりにクロブチの尻尾の短い猫は、古いトタン屋根の、台風がきたらすぐに飛ばされそうな家の前にいた。
しばらく待っていたら奥から気配がして、縁側からのそりと腰の曲がった爺さんが手に器を持って現れた。
「タケ、ほれ食え」タケと呼ばれ目の前に置かれた器に顔を寄せて、少し匂いを確認してから徐に口をつける。何度も通ううちに、いつの間にかタケと名付けられたようである。食事中、じっと黙って眺めてくる爺さんを他所に空腹を満たしていると、爺さんがポツリ、ポツリと何か喋ってくる。が、猫である自分に意味はわからない。けれどその声音が優しく寂しげであることは感じ取れた。いつからか、何度も通うその家の前でいつものように飯くれよと呼んでも、爺さんは現れなくなった。夏の蒸し暑い空気が纏わり付いく。
毎日の日課だった爺さんの家で、今日はいるかもと待っていたが一向に気配がない。と思ったら、奥からそろりと出てきたのは見知らぬ少女だった。
「あ!猫!」嬉々とした声で少女が近づこうとしてきたので、思わずジリリと後ずさる。
「ミチル、野良猫よ、さわっちゃダメ」奥からもう一人、女性が出てきて少女を呼ぶ。
「ママ、お爺ちゃん、猫飼ってた?」
「飼ってないわよ、餌付けでもしてたんじゃない?この猫、お爺ちゃんに懐いてたみたいだし」そういって爺さんがいつもくれる飯用の器をそっと摘まんでいた。
「さっさと片付けて帰るわよ」汚いものを見る人間の視線でこちらを見やる女性は、少女を引っ張りつつ中へ消えていった。そんなことがあった数日後には、爺さんの家は取り壊され始めた。大きな音と作業着の人間が行き来し、跡形もなく更地にされたその場所には「売地」と記された大きな看板が立っている。
よく意味はわからないが、もう爺さんはここにはいないのだと府に落ちた。最後のあの日に、もっと味わっておけば良かったと後になってから思う。と同時に何故か、もう一度、無性にあの優しい声音が聞きたいと思った。
なーご、なぁーごなぁ、飯くれよ真夏の蒸した風が、仄かに寂しさを紛らわせた。