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子供が泣いている。
病院、という場所はどこでも静かなものだと思っていたけれど、ここ、小児病棟はそうでもなかった。
僕が呼び出された場所は小児病棟の一室。
白いベッドの上で泣くその子供は、五歳か六歳位だろうか?
茶色みがかったさらさらの髪の女の子だった。
その女の子の背を、困った様子でさする母親と思しき女性。
その子供は交通事故に逢い、今、怪我は治ってはいるものの事故を思い出して泣き出してしまうらしい。
困った親が精神科医に相談し、僕が呼び出された。
「あら、紫音君」
ベッド横に立つ白衣の女は、病室の入り口に立ち尽くす僕を見ると笑顔で言った。
彼女は僕をここに呼び出した、精神科医の高野真梨香だった。
「本当にいいの?」
僕は真梨香さんに問いかけつつ、ベッドに歩み寄る。
「大丈夫よ。警察の聞き取りは終わってるし、事故の思い出はなくなっても困らないから」
「僕が休む部屋、空いてる?」
「仮眠室押さえてあるから、ちゃっちゃとやっちゃって」
その言葉を聞いて、安堵したわけではないが僕は泣く少女の頭に触れた。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
などと震えた声で言うのは、たぶんこの子の母親だろう。
「大丈夫よ。これでこの子が抱える恐怖や不安は消えるから、安心して」
真梨香さんの無責任な言葉を聞きながら、僕は目を閉じた。
少女が泣いている原因であろう事故の映像が、僕の中に流れ込んでくる。
母親の悲鳴、怒号、車のブレーキ音、少女の感じた痛み。
事故の一部始終と、救急車で運ばれる様子などが一気に流れてきたところで、僕は少女から手を離した。
目を開けると、少女は泣きやみ、不思議そうな顔で僕を見上げている。
「……おにいちゃん、誰? ……ママ、なんで私、ベッドにいるの?」
少女が言うと、母親は泣きそうな顔をして少女を抱きしめた。
「大丈夫だから……大丈夫だからね」
そんなやり取りを背に、僕はその場を後にした。
気持ち悪い。
額から汗が流れ胃の中の物が逆流しそうだった。
「紫音君、ありがとう。ひとりで歩ける?」
そんな真梨香さんの言葉に一切反応できず、僕はふらふらとエレベーターに向かって行った。
少女が車にひかれた時の衝撃が、生々しく僕の記憶に刻まれる。
真梨香さんが僕を呼び出した理由はこの、僕がもつ能力にある。
それは、人の不安や恐怖の元となる記憶を自分の中に取り込み忘れさせられる、というものだった。
他人の恐怖や不安の記憶、というのは見ていていいものではない。
この力を使うと僕は必ず体調を崩し、下手をすると数日食事をとれなくなる。
今日みたいな被害者が生存している事故はまだいい。
死者がでている事故や事件の記憶は……僕の心を確実に壊していく。
それでも僕はこの大学病院に呼ばれれば仕事と称し、力を使う。
心を蝕んでまでやることなのかと自問することもあるけれど、僕は高校生になってからずっと、このアルバイトを続けていた。
「紫音君、大丈夫?」
ふらふらと歩いていると、すっかり顔なじみとなっているスタッフがそう声をかけてくる。
僕は首を横に振り、
「休ませてもらうから」
とだけ答え、仮眠室へと向かった。
関係者以外立ち入り禁止区域を歩く制服姿の僕は、悪目立ちする。
それでも誰も声をかけてこないのは、この病院の誰もが僕のことを知っているからだ。
途中、トイレでしこたま吐いたあと、僕は仮眠室に入りなんとか鍵をかけ、深紅のブレザーを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んだ。
気持ち悪い。
吐いてもまだ足りない。
迫る車の映像が、僕の脳内で繰り返される。
これは泣くに決まってるだろう。
僕はスラックスのポケットからスマホを取り出し、ロック画面を解除する。
時刻は四時半を過ぎたところだった。
こういうとき、いつも見るのは動物の画像だった。
SNSにあげられている、無数の動物写真を見て心を落ち着けさせる。
こうして記憶を上書きし、吸い上げた記憶を忘れるようにしていた。
吸い上げた記憶は所詮他人の記憶なので、時間経過とともに忘れるが、早く忘れたいときはこうして無心に画像や動画を見続けるようにしていた。
しばらくすると、ドアを叩く音が僅かに聞こえた。
僕は動く気にもなれず、返事もできず黙っていると鍵が開く音が聞こえてきた。
ドアが開く音が続き、足音が近づいてくる。
「紫音」
「臨」
現れたのは友人の臨だった。
癖のある焦げ茶色の髪に、縁のない眼鏡。深紅のカットソーにジーパン。それにチョーカーをしている。
柔和な雰囲気を纏ったイケメンで、男女問わず人気がある。
十月八日。今日は金曜日。僕もこいつも学校だった。
「その格好、デートでもあんの?」
そう尋ねると、臨はベッドのそばまできて床にしゃがみながら言った。
「その予定だったんだけどね。急患がきたとかで振られたよ」
急患、ということはここの医師か看護師だろうか?
こいつはモデルの仕事もしているためか、それとも元からなのか貞操観念が狂っている。
男も女も見境なし。
一夜の関係も多いと聞く。
いつか刺されるんじゃねーかと思うが、今のところそうはなっていない。
「相手年上かよ」
「うん。あ、でもまだ何にもないよ。ほんと、たまに食事に連れて行ってもらってるだけ」
そういうの、何ていうんだ?
……パトロン? だめだ、頭が回らねぇ。
「つうか、どうやって鍵開けたんだよ」
鍵はかけた。確かに覚えている。
すると臨は、僕の前に左手をかざして言った。
「ここの鍵、電子ロックでしょ? ちょっと電気通したら開いたよ」
言葉とともに、臨の手のひらにバチバチと雷のようなものが散る。
こいつは雷を操る能力者だ。
臨の髪が、静電気でふわっと浮き上がる。
それを見た僕は、ジト目で臨を見つめて言った。
「お前、今僕に触るなよ」
今こいつに触られたら、きっとバチバチ静電気が走るに決まってる。
「えー? つれないなあ、紫音。せっかく夕食いっしょに食べようと思ったのに」
「今の僕を誘うとか鬼か悪魔か人でなしか?」
「鬼や悪魔じゃないけど、人かどうかは疑わしいかもね。俺はいくらでも待つよ。紫音のためなら」
「うるさい、そーゆーのは恋人にだけ言え」
「俺に恋人はいないよ。いるのはセフレだけだよ」
平然と言い放ち、臨は大きくあくびをした。
かれこれニ時間近くベッドで死に、やっと動けるようになった頃。
僕は身体を起こし、ベッドにもたれかかり眠っている臨の肩に触れた。
「臨」
「……あ……れ?」
寝ぼけた声で臨は言い、辺りを見回す。
そしてベッドから立ちあがる僕を見て言った。
「俺、寝てた……?」
「あぁ。夕飯、食べに行くんだろ? ちょっとなら食えるから」
言いながら、僕はブレザーを羽織る。
「なら良かった。じゃあ、ピザがいいかな。それならシェアできるし」
立ち上がりながら臨が言った時、勢いよく仮眠室の扉が開いた。
「ちょっと! また壊したわね電子錠!」
すごい剣幕で入って来たのは真梨香さんだった。
白衣ではなく私服、と言う事は業務を終え帰るところ、と言う事だろう。
彼女は臨の前まで来ると、胸倉を掴み声を上げた。
「まったく! 壊すなって言っているでしょう? なんで鍵を借りに来ないのよ!」
「ほら、急患で皆さん忙しそうだったから。大きな事故、あったんでしょう?」
「そうだけど、ねえ、臨君! だからって電子錠壊すの何度目よ? 修理にいくらかかると思ってるの!」
「弁償ならいつもしてるじゃないですか」
「そう言う問題じゃない!」
臨は少し常識がずれている。
どうも物を壊しても金を出せばいいと思い込んでいる節がある。
昔はこんなんじゃなかった気がするが。
僕はふたりのやり取りをぼんやりと見ながら、意識は別のところにいっていた。
大きな事故。
と言う事はまたきっと、僕は呼び出されることだろう。
少し先かな。
ならば食べられるときにちゃんと食べておかないと。
そう思い僕は窓の外に視線を向けた。
外はすでに夜の闇が支配していた。