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人の痛みや苦しみ、悲しみの記憶を吸い上げ、消すことができる。
その僕の力を知った病院側が僕にアルバイトをしないか、と声をかけてきた。
医学部を目指す僕には、学費や予備校費を稼ぐことができるのでここでのバイトは好都合だった。
大学病院がどういう名目で僕を雇っているのか知らないけれど、まあ、金が入るから別にどうでもよかった。
真梨香さんにしこたま怒られた後、僕と臨は、彼女の好意で食事に連れて行ってもらった。
彼女は臨に相当ぶちぎれていたのに、食事を奢ってくれるとは思わなかった。
「そういえばね」
食事の後、真梨香さんはずい、と身を乗り出し声を潜めて言った。
「この間……先月の二十日過ぎくらいだったかしらね。猫の生首が、近所で発見されたのよ」
それを聞いて僕は思わず、飲んでいたウーロン茶を吹き出しそうになる。
猫……生首……?
「あぁ、それ、聞きましたよ。首と、骨が落ちていたって聞きましたけど。警察にも届けたのでしょう?」
臨の説明に、僕はカップをテーブルに置き口元を押さえた。
猫……生首……骨。
さっき胃にいれたものが逆流してきそうだ。
隣に座る臨が平然としているのが信じられない。
真梨香さんは苦笑して言った。
「もう。外部には話すなって言ってたのに、臨君、いったい誰に聞いたの?」
今貴方が僕たちに話したことはいいのか?
という疑問を僕は飲み込んだが、隣にいる臨はそうはいかなかった。
「今真梨香さん、自分から話したじゃないですか?」
「私はいいのよ」
言いながら、彼女はブラックコーヒーが入ったカップを手にする。
「どんな理論ですか」
苦笑交じりに臨は言った。
「何? 私、貴方が今誰と付き合ってるとか、誰と関係もってるとか知ってるわよ? 今日だって救急の看護師と約束してたんでしょ?」
「その通りですけど、それ、口外されると困りますね」
確か、青少年育成条例で十八歳未満と肉体関係を持つのは禁じられている、はず。下手すると相手側が逮捕されるとかあるんじゃなかっただろうか?
だから臨は、年上との交際は隠したがる。
「そもそも喋るな、と言ったのは私だからよ。口止めした私が話すなら、大丈夫でしょう?」
まあたしかにそう、かも知れない。
「貴方がどんなに穢れようと私にはどうでもいいけど、猫の生首なんて、なんかオカルト的だと思わない?」
まあ確かにそうかもしれないが、食後の席で話すことだろうか?
「首と骨が残ってたって、なんだか食べ残しみたいに思えますけど。内臓は残ってたんですか?」
「臨!」
たまらず僕は声を上げる。
「想像させんなよ、ただでさえ僕は気分が良くないのに」
迫る僕に、臨は僕の肩に手を置き苦笑する。
「ははは、ごめんごめん。ちょっと気になったから」
だからといって具体的に聞くんじゃねえ、と思う。
「内臓とかは残っていなかったと思うけど? 私も目撃したわけじゃないし、詳しくは知らないけれど、気味が悪いわよねー」
「殺人犯て、最初はそういう動物を標的にするって言いますからねえ」
「そうなんだけどね、ちょっとそう言うのとは違うような気がして、気にはなるんだけど、調べようもないし……それっきりだし。他にも見つからなければいいんだけどね」
そんな真梨香さんと臨の会話を遠くに聞きながら、僕はひとり、胃の辺りを押さえていた。
翌日。
今日は土曜日で学校は休みだ。
なので僕は、朝から図書館にある学習室で勉強をしていた。
耳にはイヤホンをつけ、音楽を聞きながらシャーペンを走らせる。
夏休み中はバイトと予備校の夏期講習で潰した。
他に楽しみはないのかと臨には言われるけれど、今の僕には大学進学以外に興味がなかった。
僕が受験する予定の大学は、バイトをしている大学病院の大学だ。
バイトしているからと言っても公立だし、何かプラスになるわけではないが。
英文を読みながら僕の思考は昨日の真梨香さんの話に持っていかれていた。
猫の生首と、骨。
思い出してしまい、思わず僕は手で口を押えた。
凶悪な事件を起こした者の中には、前兆として動物を襲う、という話は多い。
残っていたのは首と骨だと言っていたが、ならば胴はどこ¥にいったのだろう?
臨の言う通り食べ残しだろうか?
……いや、誰が喰うんだ、誰が。
そんなオカルトじみた話、あるか?
あるわけねーよ。
僕は首を横に振り、テキストに意識を向けた。
十一時を過ぎた時、スマホがメッセージの受信を告げる。
僕はスマホを手に取り、ロック画面を解除してメッセージアプリを開く。
相手は真梨香さんだった。
『仕事なんだけど』
短く、それだけ書かれたメッセージ。
僕は、
『わかりました』
とだけ返事をし、僕はテキストなどを片付ける。
紺色のトートバッグに荷物を詰め、僕は席を立った。
今日はどんな痛みだろうか?
図書館から自転車で五分ほどで、大学病院に着く。
僕は病院の自転車置き場に自転車を置き、病院から貸与されたIDを首にかけて中に入った。
ちょうど昼時と言う事もあり、食べ物の匂いが漂ってくる。
この大学病院にはレストラン街もあり、学生や医者たちもそこで食事をとる。
僕はそんなレストラン街やコンビニがある区画を通り過ぎ、エレベーターに乗り、真梨香さんに指定された病室へと向かう。
そこは、内科の入院病棟の一室だった。
詳細は何も聞いていない。
僕が呼ばれると言う事は大抵、何かの事件、事故に巻き込まれた人だろう。
僕はノックをせず、指定された病室の扉を開いた。
「……え、子供……?」
その病室にいたのは、二十代半ばと思しき女性だった。
焦げ茶色のブラウスに、茶色のロングスカート。
明るい茶色に染めた髪。
見方によっては美人かもしれない。
ベッドに腰かけた彼女は、驚きの表情をして僕を見ている。
「大西咲さんですか?」
そう声をかけると、女性はびくり、と身体を震わせた。
「え? あ、えぇ。そうだけど……貴方が、先生が言っていた記憶を消せる人?」
疑いの目で彼女は僕を見る。
記憶を消せる、と言うのには少々語弊があるが、僕は肯定も否定もしなかった。
「真梨香さんに頼まれた。あんたの記憶を消してほしいと。心当たり、あるんでしょ?」
僕が問いかけると、彼女は怯えた目で頷く。
あぁ、この目。
光りのないこの目は、何かトラウマを抱えている人間の目だ。
何があったのかはしらない。
僕はただ、言われた通りのことをするだけだ。
「ねえ、本当に、本当に消せるの?」
震えた声で言う彼女に、僕は何も答えず歩み寄る。
「信じる信じないかなんて、あんたの自由だよ。僕は言われた通りの事をやるだけだ」
そして僕は、彼女の頭に触れた。
刹那、彼女の恐怖が僕の中に流れ込んでくる。
流れてきたのは、血の光景だった。
どうやら彼女は、殺人事件の目撃者になったらしい。
雨と、血と、銃の衝撃。
そうか。この人、撃たれたのか。
被害者はふたり。
この人の前に撃たれた人がいて、それを目撃したこの人は、そのあと撃たれた。
この事件は知っている。
数年前、雨の夜に起きた事件。
銃の試し撃ちができれば誰でもよかったと言う、そんな事件だったと思う。
事件や裁判の記憶などが一気に流れ込んできて、僕は彼女から手を離した。
気持ち悪い。
「あ、れ……?」
女性の、不思議そうな声が聞こえてくる。
僕は流れ込んだ来て記憶の処理がしきれず、口を押えながらふらふらと病室を後にした。
たぶん裁判が終わり、犯人が刑務所に入ったから、彼女の記憶を消せる状態になった、ということだろう。
吸い上げた記憶からすると、彼女は証人として裁判に出席している。
事件に関わる全ての記憶を、彼女は忘れたかったのだろう。
事件の記憶は生々しいものだった。
人が撃たれ、倒れた瞬間。
自分が撃たれた衝撃、血が流れていく様子。
それを満足そうに見つめる、レインコートの男。
女性はいろんなことを記憶していた。
雨は小雨で、街灯のおかげで彼女は犯人の男の顔をはっきり見ていた。
男は笑っていた。
気持ち悪い。
人を殺しておいて笑えるのだろうか?
……そんなやつは死刑にでもなればいいのに、たぶんそうはなっていないだろう。
僕はふらふらと病棟を歩き、いつもの仮眠室へと向かう。
今日の記憶はだいぶきつい。昼飯は抜きだなこれは……
だめだ、食べ物の事を考えただけで気持ち悪い。
臨や親は、なぜ僕がこの仕事を続けるのか聞いてくることがある。
辛い思いをしてまで続けることなのかと?
僕には僕なりに理由はある。だから放っておいてほしいのだが。
「やべえなこれ……きっつ……」
人の抱える痛みの記憶は、他人から見ても辛いものだ。
吸い上げた記憶は、その時は僕の中に蓄積されるが時が経てば忘れる。
その理由は簡単だった。
その記憶は、僕が生きていくうえで必要のない記憶だからだ。
誰かが死にかけた記憶など、憶えておく必要はない。
だから続けられる、ともいえる。
どうせ忘れるのだから。