テラーノベル
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放課後。部活の練習が始まる前の、わずかな空白の時間。
私は治くんに指定された部室裏の、古い物置の影に立っていた。夕方の湿った風が、バレーボールの弾む音を遠くに運んでいく。
「……来たな、朱里。逃げるかと思たわ」
背後から響いた、低くて少し掠れた声。
振り返ると、ジャージのジッパーを半分まで下ろした治くんが、壁に背を預けて立っていた。
スナギツネのような細い瞳が、夕闇の中で獲物を狙うように熱く、鋭く光っている。
「……ノートに、あんなこと書くから。……おにぎり三つ分なんて、食べ物じゃないんでしょ?」
「……おん。食べ物やない。……朱里の『体温』、三回分くらいやな」
彼は迷いのない動作で私の手首を掴むと、そのまま自分の胸元へと引き寄せた。
ドクン、ドクン。
ジャージ越しに伝わってくる、アスリート特有の力強く、少し速い心拍数。
「……治くん、練習始まるよ。侑くんが探しに来ちゃう……」
「……ツムなら、北さんが説教しとる。……今は、誰にも邪魔させへん。……朱里の『一口』、俺にちょうだい」
彼は私の頬を大きな手で包み込むと、親指でゆっくりと下唇をなぞった。
お弁当を交換した、あの日よりもずっと強引で、逃げ場を塞ぐような指の動き。
「……あーん、して。……俺の『隠し味』、朱里に全部叩き込んでやるから」
彼が顔を近づけ、唇が触れそうになった、その瞬間――。
「あーーーっ!! 見つけた! 治、自分だけ朱里ちゃんと『不潔な味見』しとるやんけ!! 汚いぞ、汚い極まりないぞ!!」
ガサガサッ!! と近くのゴミ箱が倒れる音と共に、侑くんが突っ込んできた。
後ろには、スマホの広角レンズで二人の距離をばっちり収めている角名くんが「これ、部内報に載せようかな」と楽しそうに続いている。
「……ツム。お前、ほんまに……死ね。……今、一番ええ『炊き上がり』やったのに」
「炊き上がりって何やねん!! 朱里ちゃん、こいつの口には『治専用』っていう劇物が入っとるからな!! 近づいたらあかんで!!」
「……劇物やない。……愛や。……角名、今のツムの『半泣き顔』、学校の掲示板にハッキングして載せとけ。……朱里、行くで」
治くんは侑くんの口に、持っていた新品のバレーボールを力任せに押し込んで黙らせると、私の手をギュッと握り、さらに暗い渡り廊下へと連れ去った。
「……朱里。……中途半端に終わるん、俺、一番嫌いやねん。……今日は家帰るまで、絶対離さへんからな」
放課後の、不純なおすそ分け。
おにぎりの匂いよりもずっと濃い、治くんの「食欲」という名の独占欲が、私の心をドロドロに支配していった。
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