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翌朝。
俺と馨、佐々課長は俺の部屋にいた。
俺は、宇宙展の依頼があったこと、担当に馨を指名されたこと、馨の代わりに現場を仕切って欲しいことを話し、馨は時折頷きながら黙って聞いていた。
話が進むにつれ、課長の表情が明るくなっていく。
「現場に戻っていいのか!?」
課長が珍しくため口になった。
後輩とはいえ上司の俺に、課長はいつも敬語。俺が気にしなくていいと言っても、けじめだからと変えなかった。
嬉しそうだな……。
「企画会議とか、依頼主との打ち合わせとか、出ていいのか?」
「はい。お願いします」
「そうか! 任せろ!! 那須川は思う存分、宇宙展に打ち込め!」
「ありがとうございます」
「そんなに現場がいいですか?」と、俺は聞いた。
「俺には向いてないんだよ、デスクワーク。那須川たちから報告を受けて、一言二言アドバイスするだけじゃ物足りないし、もどかしいな。俺ならこうする、俺なら出来る、とか考えてばっかでさ……」
課長はコーヒーを飲み、ため息をついた。
「わかってはいるんだけどな。後が閊えてるから、俺が現場にしがみついてちゃいけないって。けどなぁ……」
「辞令も急でしたしね」と、馨が言った。
「そうだな」
前任の課長が体調不良で休職し、しばらくは俺が兼任していた。復帰の目処が立たず、痺れを切らした上層部が佐々さんに課長昇進を告げた翌日、彼はデスクを移動していた。
「担当していた案件を最後までやりきれなかったから、余計に気持ちが残ってるんだろうな。だから、那須川の代理を現場納めとして頑張るわ」
「お願いします」
「けど、そうなると、那須川のアシスタントは誰だ? 今はみんな手一杯だろ」
「俺がアシストします」
「え?」
俺の言葉に、馨が目を丸くした。
「何だよ。俺じゃ不満か?」
「そうじゃ――」と、馨は歯切れ悪く言う。
「公私混同はマズいんじゃないのか?」と、課長。
「お前らが付き合ってるって噂、本当なんだろ?」
「はい」
「矢面に立たされるのは那須川だ。事実がどうであれ、こんなにデカい仕事を任されたのは恋人《お前》の一声だとやっかまれるぞ」
それは、わかっている。
「ま、お前のことだからきっちりフォローするんだろうけどな。先輩として言わせてもらえば、こういう時は堂々としてた方がいいってことだ。事実、那須川は仕事がデキるんだしな」
「先輩もフォローしてくれるんでしょう?」
久し振りに、佐々さんを先輩と呼んだ。
「可愛い後輩と部下の幸せのためだ。出来るだけはするさ」
「ありがとうございます。結婚式では、ぜひスピーチお願いします」
馨が、信じられないという顔で、口をパクパクさせている。
相変わらずおもしれー。
「は? そんなとこまで話、進んでんの?」
「はい。婚約したんですよ、俺たち」
「マジか! デキ婚じゃないよな?」
「違いますよ。今のところは」
「那須川に急に抜けられるのはイタいからな。子作りは計画的に頼むぞ」
「それ、他で言ったらパワハラですよ」
「ああ……。聞かなかったことにしてくれ」
佐々さんは苦笑いして、デスクに戻って行った。
「何……勝手に……」
馨が唇を尖らせて、言った。
正直、変な顔。
「これで、諦めがつくだろ?」
「諦め?」
「そ。諦めて、黙って俺と結婚しろ」
俺は馨の腰に腕を回した。
「婚約破棄されたら、大泣きしてやる」
キス。
「また、それ……」
もう一度、キス。
「俺を泣かすなよ?」
今度は、深いキス。
「ん……」
「そんなイイ声、出すな。止まらなくなる」
姉さんが帰るまでの三日後までの辛抱だ。
疼く下半身に言い聞かせ、俺は馨の温もりを手放した。
*****
佐々さんは口の軽い人じゃない。
だから、俺はわざと総務部で同期に婚約したことを話した。総務部の女性はお喋り好きが多い。
予想通り、終業時間には社内の半分の人間が、俺と馨の婚約を知っていた。
黛もその一人。
その証拠に、すれ違い様に親の仇を見るような形相で睨まれた。
これで、馨は名実ともに俺の女だ――。
馨を黛から守るために言い出した契約結婚だったが、今では馨を手放さないための口実になっていた。
「暁不動産は崖っぷちみたいね」
食事を終え、ビールを片手に姉さんが言った。
「崖っぷち?」
「そう。表向きには不況の煽りを受けて業績が伸び悩んでいるってことになっているけど、実際は無能な専務の失態続きで大赤字だって。あ、専務は社長の長男ね。次期社長と言われているけど、これがどうしようもない無能なボンボンで、仕事は出来ないくせに自信家で、女にはだらしないし金遣いは荒いしで、社内でも評判らしいわ。社員に手を出して妊娠させたことがあるとか、慰謝料を払ったとか、とにかく絵に描いたようなクソ野郎よ」
俺は食器を洗い終え、缶ビールを二本とつまみのチーズを冷蔵庫から出した。一本を姉さんに渡す。
「次男は不動産業に全く興味はなくて、結婚して妻や妻の両親と一緒にレストランをやってるわ」
「へぇ……」
「兄弟で一番経営者向きの三男は、長男と仲が悪くてドイツ留学したきり帰って来てないみたい」
「あるあるだけど、ホントにあるんだな」
姉さんが缶を空にしながら器用に頷く。
「前社長は実力主義で、現社長は次男だけど平社員から実力で社長の椅子を掴んだのよ。お陰で兄弟は絶縁状態らしいけど。前社長、つまりバカ専務の祖父が健在だった頃は入社すら許されていなかったんだけど、三年前に前社長が亡くなって、現社長が親バカっぷりを発揮し始めたってわけ」
「入社して三年で専務か……」
「ね? 考えられないでしょ?」と言いながら、二本目の缶を開ける。
昨日のうちに特急料金を払ってまでビールを箱買いしておいて良かった、と思った。
「バカな子ほど可愛いって言うのは本当なのね。社長はとにかく長男に会社を継がせたくて、不祥事を揉み消してきたけど、本気で経営が傾きかけて、ようやく考え直し始めたみたらしいわ」
「悠長な話だな」
「社長が専務を解任する前に、他の重役連中が父子揃って追い出すかもね」
「クーデターか?」
「まだ、記事にもできない噂程度だけどね」
クーデターか……。
ふと、思った。
そういや、黛が立波リゾートを欲しがるのは、単なる野心からか?
「で、ここからが面白いんだけど、経営難に陥った暁不動産が助けを求めているのはどこだと思う?」
姉さんがニヤリと笑った。特ダネを掴んだジャーナリストの顔だ。
「立波リゾートよ」
「は?」
「秘密裏に接触しているらしいの」
暁不動産が立波リゾートに接触した……?
黛が桜を帰国させて婚約を成立させようとしている、現在――?
偶然か……?
「確かか?」
「私が部下に裏付けを指示する程度には」
姉さんは記事にするつもりらしい。
この場合、立波リゾートは身に覚えがないとしらを切れば済むが、暁不動産はそうはいかない。経営不振の原因について、根掘り葉掘り調べられる。
「何か……ツテがあっての接触か?」
「それは重役連中も不思議らしいわ。社長が自ら出向いて交渉を始めたらしくて」
黛の差し金という可能性はないか……?
桜との関係を父親に教え、いずれ姻戚関係になるからと何らかの援助を願い出た。
偶然で片付けるより、筋が通っていないか?
「何か、知っていそうな顔ね」
姉さんが俺の顔を凝視して言った。
「教えなさいよ」
こうなると、姉さんはしつこい。残りの二日と数時間の同居生活で、口を割らされる可能性はかなり高い。
どこまで話す……?
姉さんが記事にしたくなるようなことは言えない。けれど、嘘も言えない。弟の悲しい性で、昔から姉さんには嘘が通用しない。
「うちの会社に暁の親族がいるんだけど、そいつが馨にちょっかいを出してるんだ」
「暁の親族?」
「社長の隠し子らしい」
「隠し子!?」
「ああ。で、そいつが、馨が立波の親族だと知って近づいた」
姉さんは頬杖を突き、拳に唇を押し当てる。
「まさか、その男から馨ちゃんを守るために結婚するとか言わないでしょうね」
「さすが姉さん」
姉さんは呆れ顔で大きなため息をつく。
「さすがじゃないわよ。だから馨ちゃんはあんたが犠牲になるとか言ってたのね」
「それは馨の思い込みだけどな」
「でしょうね。結婚に全く興味がなかったあんたが、いくらお気に入りの部下の為とはいえ、結婚なんてあり得ないもの」
さすが姉さん。
「どうしてちゃんと言ってあげないのよ。あんな風に泣かせるくらいなら――」
「馨は俺を好きだと思うか?」
「何よ、珍しい。自信ないの?」
「ねぇよ……。始まりが最悪だったし、金やステータスになびく女じゃねぇし」
今度は俺がため息をつく。
「だから実家のことも言わないの?」
「言ったら……逃げられる気がする」
「そんなことはない、とは言えないわね……」
「言えよ……」
「嘘は慰めにならないでしょ。それにしても、あんたが三十も半ばになって恋煩いとはねぇ」
姉さんは楽しそうにニヤニヤしている。冷蔵庫からビールを二本出し、一本を俺の前に置いた。
「自分でもビックリだよ」
「それだけ本気だってことでしょう? 私もあの子、好きよ。今時珍しく真っ直ぐだわ。けど、それだけじゃなくて、ちゃんと芯が通っていて前を見てる」
自分が褒められるより、嬉しかった。思わず口元が緩む。
「しっかり捕まえておきなさいよ」
「ああ」
「とりあえず、逃げられる前に馨ちゃんとデートしようっと!」
姉さんは缶を持って立ち上がる。
「逃げられるの前提かよ!?」
「ふふふっ。そうならないように祈ってるわ」
姉さんは嬉しそうに天井を仰いで、ビールを飲み干した。