テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
3,530
全然物語を更新できていないにもかかわらず、フォロワー様がここまで増えていることに、本当に驚きと感謝でいっぱいです。
見つけてくださったこと、フォローという形で応援してくださっていること、そして今も待っていてくださること、そのすべてが自分にとって大きな支えになっています。
そして、ついにフォロワー200人になりました。
ここまで来られたのは、間違いなく皆様のおかげです。本当に、本当にありがとうございます。
まだまだ未熟ではありますが、これからは少しずつでも物語を届けていけるよう精一杯頑張ります。
これからもどうぞよろしくお願いします。
窓の外は、すでに濃密な夜の帳に飲み込まれていた。
スタジオの広大な合わせ鏡のようなガラス越しに見える街は、家路を急ぐ車のテールランプが赤い血流のように連なり、雨上がりの路面に反射して、まるで万華鏡のように揺らめいている。
遠くのビル群が放つ無機質な冷たい光は、酷使された網膜の上で滲み、瞬きをするたびに地上に降りた星屑の群れとなって視界を支配した。
つい先ほどまで、鼓膜を暴力的に震わせていた重低音はぷつりと途絶え、今はただ重苦しい静寂だけが横たわっている。
空気中には、踊り狂ったあとの湿り気を帯びた熱気と、わずかに焦げたようなスピーカーの匂い、そして消え残った旋律の残像が、粒子となって漂っていた。
「……はぁ」
肺の奥に溜まった澱を吐き出すように深く息を漏らす。
その吐息が、冬の夜気を含んだ室内で白く消えていくような、奇妙な錯覚に陥った。
床にポツリと落ちた汗の雫が、天井のスポットライトを吸い込んで真珠のように光り、鏡張りの壁から跳ね返る青白い光を反射しながら、リノリウムの床にじわっと黒い染みを作っていく。
今日は何度繰り返しても、正解という名の輪郭に辿り着けなかった。
脳内では、神経の末端まで研ぎ澄まされた完璧な軌道を描いているはずの振付が、肩へ、指先へ、そして足先へと伝達される過程で、ノイズ混じりの不純物へと変質していく。
音を捉えるタイミング、わずか数ミリの重心の移動。
そして鏡に映る、自分ですら見覚えのないほど歪んだ表情。
そのすべてがバラバラに解体され、制御不能な肉体の塊を突きつけられているようで、胃の底からせり上がるような嫌悪感がこみ上げた。
「もう一回……」
外界を遮断した、自分と鏡だけの孤独な円環。
音源を再生する指先の気力すら惜しみ、ただ乾いた床を強く蹴ろうとした、その時だった。
「なおや」
低く、凪いだ深夜の海を連想させる声が、強張った背中に静かに落ちた。
心臓が跳ね、世界の動きがぴたりと停止する。
振り返るまでもない。
鼓膜の奥にこびりついて離れないその響きだけで、主が誰かは理解していた。
たくだ。
「……何」
わざと喉を絞り、突き放すような掠れた声を出す。
背後から、コツ、コツと硬い靴音が規則正しく近づいてくる。
防音性の高いはずの床を叩くその音は、静まり返った室内で、心臓の鼓動を急かすような暴力的なまでの明瞭さで響き渡った。
「まだやってたのか」
「別に。ちょっと確認してただけ」
「嘘だな」
食い気味に放たれた否定に、わずかに眉が跳ねる。
「顔、死んでるぞ」
「は? ……失礼なんだけど」
堪らず振り返ると、たくは数歩の距離で悠然と足を止めていた。
天井のスポットライトを背負った彼のシルエットは、輪郭を白く発光させ、床に長く鋭い影を伸ばしている。
彫刻のように無駄のない横顔は、影の中でどこか冷徹な印象を与えたが、真っ直ぐに俺を射抜く瞳だけは、暗がりの奥で隠しきれない熱を持ってこちらを捉えていた。
「上手くいってないんだろ」
逃げ場のない正論が、鋭利な刃となって胸の奥を正確に突く。
何も言い返せない代わりに、俺は逃げるように視線を斜め下、自分の影へと逸らした。
「……別に」
消え入りそうな呟きに、重いため息が重なる。
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
熱を持った大きな手に、手首を強引に掴まれる。
「ちょ、何……っ」
「来い」
抵抗する間もなく引かれ、よろめいた身体は、逃げ道を塞ぐように壁際へと押しやられていた。
背中に、鏡の心臓を冷やすようなひんやりとした感触が伝わる。
「なんなの、急に」
「逃げんなって言ってる」
短く、重圧を孕んだ言葉。
物理的な距離が、一気にゼロへと収束していく。
照明の光がたくの髪の一房一房を細く縁取り、深い影がその頬の窪みに落ちていた。
表情の読み取れないコントラストの中で、至近距離にある視線だけが、異様なほど鮮明に俺を縛りつける。
「……別に逃げてないし」
「逃げてる」
「逃げてない!」
向きになって声を荒らげ、彼の胸を押し返そうとした瞬間、さらに顔を近づけられた。
「じゃあ、なんで目を逸らす」
混じり合う、熱い吐息。
自分の心音の速さが、全身の血流を支配し、耳の奥で警鐘のように鳴り響く。
「……それは、」
喉の奥が痙攣し、言葉が形を成す前に霧散した。
「ほらな」
暗がりのなかで、彼が小さく自嘲気味に笑う気配がした。
悔しくて、己の弱さが情けなくて、結局俺は再び視線を落とすしかなかった。
すると、手首を縛り上げていた鉄のような力が、ふっと消える。
解放されたと思った次の瞬間、視界が彼の分厚い胸元で塞がれた。
「……え」
硬い胸板に、俺の額が沈み込む。
同じように練習に没頭していたせいか、練習着の布地越しに伝わる体温はやけに高く、汗ばんで強張っていた俺の体温と同化していくようだった。
「無理すんなって、言ってんだろ」
頭上から降ってくる声は、さっきまでの硬質さが嘘のように柔らかく、ひどく過保護な甘さを帯びて響いた。
「……してないし」
条件反射で返した強がりは、たくの胸元で情けなく籠もって消えた。
「してる」
「してない」
「してる」
子供じみた応酬を繰り返すうちに、極限まで張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
たくの腕に閉じ込められているせいで、世界が彼という存在だけに収束していく。
俺を拘束するその腕の力は、逃亡を許さないほど強固で、けれど不思議なほどに呼吸は深くなっていく。
自分を縛っていたのは、彼ではなく、自分自身の「完璧」という呪縛だったのだと、その体温が教えてくれた。
「……なんで、分かんの」
掠れた声で漏らした問いに、わずかな沈黙が流れる。
スタジオの外、遠くを走る車の走行音が、まるで深海の底に響く音のように遠ざかっていく。
「見てるからだ。ずっと」
その言葉は、どんな高価な機材が放つ音響よりも重く、鼓動の隙間を埋めるように俺の心臓の真ん中に突き刺さった。
「ちゃんと、やりたいだけなのに……」
「分かってる」
「足引っ張りたくないし、完璧じゃなきゃ意味ないし」
「分かってるって」
宥めるように、さらに強く抱きしめられる。
リノリウムの床から這い上がってきた冷気が、たくの熱によって中和され、霧散していく。
「でも、一人で背負い込むな。……俺がいるだろ」
その声には、拒絶を許さない絶対的な響きがあった。
「……重い」
「知ってるよ」
「自覚あるんだ」
「ある。でも、やめるつもりもねえ」
迷いのない即答。
そのあまりの強引さに、とうとう毒気を抜かれた俺は、小さく息を吐きながら彼のシャツの裾を指先でギュッと掴んだ。
その微かな甘えを、彼は敏感に感じ取ったのだろう。
たくの手がゆっくりと、俺の背中のラインをなぞるように上下し始める。
一定のリズムで繰り返されるその動きは、高ぶった感情を鎮めるための、静かな儀式のようだった。
「なおや」
名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げる。
至近距離で結ばれた視線は、逃げ場のないほど真っ直ぐだった。
「ちゃんとやりたいなら、俺を使え。お前のための、俺だろ」
「……何それ。傲慢すぎ」
「頼れってことだよ」
少しだけ意地悪く、けれど慈しむように目を細める彼。
その表情を見た瞬間、俺の中に澱んでいた焦燥が、さらさらと砂の城のように崩れて消えていくのが分かった。
「じゃあさ……」
「ん?」
「今だけでいいから、こうしてて」
言うなり、俺は再び彼の胸に顔を埋めた。
返事を待つ数秒が、永遠のように長く、そしてひどく甘やかに感じられる。
「……ダメ?」
「最初から、そのつもりだよ」
今度はさっきよりも優しく、慈しむような力で抱きしめ直された。
「一人で戦ってるとか、二度と思うな」
耳元で囁かれる誓いのような言葉に、俺はゆっくりと目を閉じた。
窓の外、滲んでいたはずの街の光たちが、今はなぜか、明日への道標を指し示す航路灯のように澄んで見えた。
たくの腕の中は、不思議なほど静かだった。
さっきまで自分の中で暴れていた苛立ちが、嘘みたいに遠ざかっていく。
代わりに残ったのは、ゆるやかに満ちていく互いの体温と、確かに「二人」でここに在るという、確固たる実感だけだった。
規則的に背中を撫でる手の動きが、思考の境界線を少しずつ溶かしていく。
「……なあ」
低く落ちてくる声に、閉じていた目をわずかに開ける。
「まだ納得してねえ顔してる」
「してないし」
即答したものの、声に力はなかった。
「嘘つくとき、ちょっとだけ息止まるの知ってるか」
「……は?」
思わず顔を上げると、すぐ目の前でたくの瞳が、俺の動揺を克明に映し出していた。
「一回見せろ。さっきやってたやつ」
「……何を」
「今だからだろ。できてない状態、ちゃんと見せろ」
その声音は静かながらも、逃げ道をすべて塞ぐような強さを持っていた。
しばらくの沈黙のあと、俺は小さく息を吐き、たくの腕から離れた。
少しだけ距離を取り、鏡の前で立ち位置を整える。
鏡の中に映る自分と、その背後に佇むたく。
「……笑うなよ」
「笑わねえよ」
即答。
小さく呟いて、身体を始動させる。
音のないスタジオに、衣擦れの音と、床を滑るシューズの音だけが響く。
一歩、踏み込む。
腕を振り上げ、重心を落とし、ターン――。
やはり、わずかに軸がブレる。
分かっているのに修正できないもどかしさが、指先の震えに滲む。
「そこ」
短く声が飛ぶ。
「今の二歩目、力入りすぎ。あと、視線。下に落ちてる」
「そんなつもり――」
「ある。自信ないときの癖だ。……でも、そこ直せば全然変わる」
あまりにもあっさりと言われ、拍子抜けした。
「……それだけ?」
「それだけ。お前の良さ、そこじゃねえだろ」
たくが一歩歩み寄り、俺の肩にそっと手を置いた。
「もっと、抜け」
軽く肩を叩かれ、次に背中、最後に胸元に触れられる。
彼の指先が触れるたび、その場所から硬直が解けていくような感覚があった。
「もう一回」
今度は、ほんの少しだけ肩の力を抜いてみた。
同じ振り、同じ軌道。
なのに、終わった瞬間、自分でも驚くほど身体が軽かった。
「な?」
後ろから聞こえる満足げな声。
振り返ると、たくがふっと口元を緩めていた。
「……なんで分かんの、そんなの」
「だから言ってんだろ。見てるって。お前が思ってるより、ずっとな」
静かに言い切られて、視線が逸らせなくなる。
「……ずるい」
「何が」
「そういうの」
たくは少しだけ目を細め、再び俺をぐっと引き寄せた。
「できてんだから、勝手に限界決めんな。お前が思ってるより、お前はちゃんとできてる」
その言葉は、どんな華やかな称賛よりも真っ直ぐに俺の心に届いた。
「……ほんと?」
「ほんと」
迷いのない即答。
それだけで、閉ざしていた視界が開けるようだった。
窓の外の夜は、相変わらず深い。
それでもさっきより、その暗さは怖くなかった。
「なおや。明日もやるぞ」
「え、鬼?」
「当たり前だろ。……その代わり、ちゃんと横で見続けてやる」
その約束が、心地よい余韻となって胸に残る。
「……じゃあ、やる」
「最初からそのつもり」
たくの言葉が落ちたあと、わずかな静寂が二人のあいだに満ちる。
さっきまで速すぎたはずの心拍が、ようやく一定のリズムを取り戻していくのが分かった。
胸の奥で鳴っていた警鐘は遠のき、代わりに、隣にある体温と同じ速さで呼吸が揃っていく。
ほんの数センチの距離。
触れればすぐ分かるほど近いのに、不思議と息苦しさはなかった。
むしろ、肺の奥まで空気が落ちていく感覚が、やけに鮮明だった。
窓の外、滲んでいたはずの光が、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。
夜はまだ終わらない。
けれど、その先に続く時間は、もう一人ではなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!