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「誰も、その封筒に触らないでください」
最初に動いたのは、倉橋先生だった。
鞄から白い袱紗を出し、畳の上の封筒を、指先を使わずに、袱紗ごとすくい上げた。
四十年、この家の法律ごとを見てきた人の手は、少しも震えていなかった。
私は、畳から体を起こした。
榊さんは、膝をついたまま、左手を体の脇に下ろしていた。
手の甲が、赤黒く光っていた。
「水を」
私は、榊さんの右の手首をつかんでいた。
家政婦の手が、客の手首を。誰の目も、気にしなかった。
「水屋へ。早く」
茶道口の襖を開け、榊さんを引っぱるようにして、水屋へ入った。
背中で、麗奈の声がした。
「……玲司さん、ですって」
*
水屋の流しの蛇口を、細くひねった。
冷たい水の下に、榊さんの左手を差し入れた。
榊さんの肩が、一度だけ、びくりと動いた。
「動かさないで。十五分、このままです」
「十五分」
「二十分でも。痛みが引いても、まだです」
一年前、私が病室で教わったことだった。
火傷は、まず冷やす。こすらない。水ぶくれは潰さない。肌にくっついたものは、剥がさない。
東雲先生は、包帯を替えながら、何度もそう言った。
自分の手で、自分にできるように。
「あなたの手は」
榊さんが、低く言った。
「火に、触っていないか」
「触っていません。榊さんが、押したから」
「肩を、強く押した。……痛むか」
「いいえ」
自分の手を焼いた人が、私の肩の心配をしていた。
流れる水の音だけが、水屋に満ちていた。
棚の奥の、欠けた茶碗が、薄暗がりの中で白く見えた。
十五分たって、蛇口を止めた。
手の甲の真ん中に、薄い水ぶくれが二つ、できかけていた。
私は、水屋の引き出しから、新しい食品用のラップを出した。清潔な布の代わりに、そっと巻く。
「病院へ、行ってください。今すぐ」
「終わってからだ」
榊さんは、ラップを巻いた自分の手の甲を見た。
それから、私の首を見た。
スカーフの縁から、少しだけのぞいている、引きつれた痕を。
榊さんの唇の端が、かすかに上がった。
「揃いになったな」
「……笑い事では、ありません」
「笑い事じゃない」
榊さんは、ラップの手を、膝の上に置いた。
「だが、悪くない」
私は、何も言えなくなった。
唇を噛んで、濡れた布巾を絞った。
「さっきは」
やっと、それだけ言った。
「お名前を。……申し訳ございません。あんな、人前で」
「謝るな」
榊さんは、私を見なかった。
水屋の小さな窓の、外の金木犀を見ていた。
「聞こえた。……それでいい」
一度、口にしてしまった名前を、私は胸の奥に押し戻した。
心の中でまで、その名前で呼ぶことは、まだ、自分に許していなかった。
*
水屋を出る前に、小さな窓の外が、目に入った。
庭の金木犀の下で、陽翔が、源さんと一緒に、こぼれた橙色の花を拾っていた。
ムギが、二人のまわりを跳ねていた。
茶室で何が起きているのか、陽翔は知らない。
知らないまま、自分の家の庭で、花を集めていた。
*
茶室に戻ると、誰も、席を立っていなかった。
倉橋先生の膝の前に、袱紗にのった封筒があった。
端が黒く焦げ、角が一つ、燃え落ちていた。けれど、遺言書という太い字も、閉じ目の朱い印も、残っていた。
お義母さまは、床の間の前に、崩れるように座っていた。
背筋が、初めて、曲がっていた。
「凛さん」
蒼真が、私を見ていた。
「今、兄さんを、何て呼んだ」
「とっさに、お名前しか、出てまいりませんでした」
凛の声で、そう答えた。
「お見苦しいところを、申し訳ございません」
本当は、とっさではなかった。
ずっと、喉の奥にあった名前だった。
蒼真は、何も言わなかった。
左の手首の腕時計を、右手で握りしめていた。
「封は、開いておりません」
倉橋先生が、静かに言った。
「ただ、一度開けて、閉じ直した跡がございます」
「……私よ」
お義母さまの声だった。
「三年前。あの人が亡くなった晩に、書斎の金庫から出したわ。葬儀の三日あとに、やかんの湯気で開けて、読んで、閉じて、茶室へ移した」
叔父さまが、杖を握り直した。
「中身を、覚えているのか」
「何百回、読んだと思っているの」
お義母さまは、顔を上げなかった。
床の間の、開門落葉多の軸の下で、膝の上の手だけを見ていた。
「この家と土地は、陽翔に」
蒼真の肩が、跳ねた。
「御影ホールディングスの株は、蒼真と、榊さんに、半分ずつ。……陽翔が大人になるまで、陽翔に残した財産は、親の蒼真ではなく、榊さんが管理すること」
一つずつ、区切るように。
長い経文を唱えるように。
「それから、最後に、付け足しのように」
お義母さまの声が、そこで一度、途切れた。
「陽翔のことは、澪さんに頼みたい。あの子の母は、もう澪さんだから、と」
息が、止まった。
茶道口の脇で、私は、盆を持った手に力を入れた。
盆の縁が、手袋ごしに、指に食いこんだ。
お義父さま。
和館の奥で新聞を読んでいて、嫁の私には、時候の挨拶しかしなかった人。嫁いだ日の祝いの包みに、一度だけ、澪さん、と書いてくれた人。
あの人は、見ていた。
私が、陽翔の母になろうとしていたのを。
「……親父が、澪に?」
蒼真が、笑おうとして、失敗した。
えくぼが、片方の頬で、引きつったまま止まった。
「嫁のことなんか、名前もろくに呼ばなかったくせに」
隣で、榊さんが、ラップを巻いた手を膝の上で握った。
その目が、ほんの一瞬だけ、茶道口の私のほうへ動いて、すぐに戻った。
「澪さんは、もういないのにね」
お義母さまは、私のほうを見なかった。
「私の名前は、どこにもなかったわ」
*
倉橋先生が、袱紗の上に、両手をついた。
「奥様。法律は、遺言書を隠した相続人、破り捨てたり燃やそうとしたりした相続人は、相続人になることができない、と定めております」
ゆっくりと、言葉を選んでいた。
「奥様は、宗一郎さんの遺産を、何一つ、お受けになれません。この家の、半分も」
多恵子叔母さまが、口元を押さえた。
叔父さまは、長いあいだ目を閉じていた。
それから、焦げた封筒の、太い字を見た。
「兄貴の字だ」
杖の頭を握る手が、震えていた。
「貴和子さん。あんたは三年、これを一人で抱えていたのか」
お義母さまは、答えなかった。
「明日、私がこの遺言書を家庭裁判所に出し、検認の申し立てをいたします。封は、裁判所で開けていただきます。それまで、これは私がお預かりします」
「待ってくれ」
蒼真の声が、裏返った。
「じゃあ、この家は……売れないのか。陽翔の家で、管理するのは、兄さんで……」
誰も、答えなかった。
「ねえ、それって」
麗奈が、蒼真の袖を引いた。
「私たち、どこに住むの?」
その声が、茶室の中で、ひどく場違いに響いた。
榊さんが、ラップを巻いた左手を膝に置いたまま、口を開いた。
「陽翔の財産の管理者として、一つだけ言っておく」
お義母さまのほうを、見た。
「和館には、これまで通り、住んでいただいて構わない。……陽翔の、祖母として」
お義母さまが、初めて顔を上げた。
榊さんを、見た。
三年前、焼香を拒んだ相手を。
何か言いかけて、お義母さまは、唇を閉じた。
*
叔父さまが、杖をついて、立ち上がりかけた。
そのとき、お義母さまが、もう一度口を開いた。
「……追伸があるの」
叔父さまが、動きを止めた。
「遺言の最後に。あの人の字で、一枚だけ」
お義母さまは、膝の上の手を見つめたまま言った。
その声は、もう、誰かを守る声ではなかった。
「紗季さんが死んだ夜、洋館の勝手口から出ていったのは、花園麗奈という秘書だ。……あの子を調べなさい、と」
#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
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コメント
1件
第60話、読みました……。火傷の手当てをする凛さんの手が、もう完全に家政婦の手じゃなくて、胸がぎゅってなりました。「揃いになったな」って榊さんが言うところ、静かで、でもすごく重くて、忘れられないです。 遺言に澪さんの名前があったの、お義父さまはちゃんと見てたんだ……って泣けました。「私の名前はどこにもなかった」というお義母さまの言葉も刺さる。最後の追伸で麗奈さんの名前が出て、また波乱の予感……続きが気になります。お義母さまの三年間、ただ苦しいだけじゃなかったんだろうなと思います。