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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
花園麗奈。
その名前が、四畳半の茶室に落ちた。
最初に聞こえたのは、笑い声だった。
「やだ、何それ」
麗奈だった。
若草色のワンピースの膝を崩して、口元に手を当てていた。
「お義父さまの、妄想でしょ。私、秘書だったのよ。書類を届けに行っただけ。新聞にだって、そう書いてあったじゃない」
誰も、笑わなかった。
麗奈の笑い声だけが、釜の湯の音の上に、細く浮いていた。
「ねえ、蒼真さん」
麗奈が、隣を見た。
蒼真は、麗奈を見なかった。
倉橋先生の膝の前の、焦げた封筒だけを見ていた。
「……親父は、最後のころ、薬で頭がぼんやりしてたんだ」
「兄貴は、ぼけてなどいなかった」
叔父さまが、杖の頭に両手を重ねたまま言った。
「死ぬふた月前に、この茶室で、私と碁を打った。私が負けた」
麗奈の唇が、半分開いたまま止まった。
畳についた麗奈の右手の、長い付け爪が、い草の目に食いこんでいた。
「追伸につきましては」
倉橋先生が、袱紗の端を静かに折り返した。
「相続の話ではございません。私の仕事の、外のお話です」
それきり、誰も、麗奈の名前を口にしなかった。
口にしないことが、何より大きな声だった。
*
客が帰ったのは、四時を過ぎてからだった。
多恵子叔母さまは、門を出るまでに三度、麗奈を振り返った。
あの人の口から、明日の朝には白樺台じゅうに広がるだろう。
私は、茶室の片づけに戻った。
お義母さまは、まだ床の間の前に座っていた。
軸の外された壁と、開いたままの鉄の扉の前で。
「大奥様。風炉の灰を、改めさせていただきます」
「そのままでいいわ」
お義母さまは、振り向かなかった。
「入れ替えなくていい。……今年は、もう風炉は使わないもの」
十一月になれば、炉を開く。
燃えかけた遺言の匂いが残る灰は、来年の五月まで、このまま眠ることになる。
私は、風炉に一礼して、茶室を下がった。
*
その夜、食堂に下りてきたのは、陽翔だけだった。
蒼真は書斎にこもり、麗奈は和館の客間から出てこなかった。
お義母さまの膳は、手をつけられないまま戻ってきた。
陽翔は、一人で甘い卵焼きを食べ終えると、ポケットから何かを出した。
小さな手のひらに、橙色の花が、しおれかけて山になっていた。
昼間、源さんと庭で拾っていた金木犀だった。
「りんさんに、あげる」
「ありがとうございます、坊ちゃん」
凛の声で、そう言った。
本当は、陽翔、と呼んで抱きしめたかった。
陽翔は、私の顔を見上げた。
「きょう、おちゃしつで、だれか、おこられた?」
「……大人のお話がありました。もう、終わりましたよ」
「おばあちゃま、ごはん、たべないの?」
答えられなかった。
陽翔は、それ以上は聞かずに、自分の皿をそっと流しまで運んだ。
この子は、聞かないことを覚えてしまった。
覚えさせたのは、この家の大人たちと、私だ。
花を、水を張った小皿に浮かべた。
厨房の窓辺で、甘い匂いが、ゆっくりと立った。
*
夜十時過ぎ、半地下の部屋で、スマホが震えた。
「病院に行った。東雲先生に、こっぴどく叱られた」
榊さんからだった。
「痕は残るそうだ。それから、手当てをした人間を褒めていた。十五分冷やしたのは正しい、と」
指先が、画面の上で止まった。
褒められたのは、東雲先生が一年かけて私に教えたことだった。
「今夜、温室へ行きます」
私は、右手の親指で打った。
「月下美人の鉢の下に、もう一つ缶があります。この家に来てすぐのころに見つけて、開けずに埋め戻したものです」
返事は、すぐに来た。
「掘ったら、まっすぐ離れへ。俺が預かる」
*
十一時半。
家じゅうの灯りが消えるのを待って、勝手口を出た。
温室の扉は、夜露で冷たかった。
懐中電灯の光を、手で覆って床に向ける。
月下美人の大鉢は、あの夜と同じ場所で、平たい葉を天井へ伸ばしていた。
鉢の縁に両手をかけ、少しずつずらす。
私の缶は、もうここにはない。あの夜、胸に抱えて持ち帰った。
だから、土の下に残っているのは、一つだけだ。
二十センチ。三十センチ。
スコップの先が、硬いものに当たった。
錆びた、四角い缶だった。
紅茶の缶らしい。ラベルの絵は、もう色が抜けて、何の花だったのかわからなかった。
蓋は、錆で固まっていた。
手袋の指をかけて、少しずつ、ずらした。
中に、冷凍用の袋が一つ入っていた。
口が、きっちり閉じてあった。
白い紙の袋。病院の、薬の袋だった。
印刷された医院の名前の下に、手書きの字があった。
花園麗奈 様。
日付は、四年前の九月。
袋の中に、銀色のシートが何枚も重ねて入っていた。
どれも、一つ残らず押し出されて、空だった。
そして、四つに畳んだ、ノートの切れ端。
開くと、細い、丁寧な字が並んでいた。
一行ごとに、日付があった。
九月十二日。麗奈さんが、よく眠れるサプリをくれた。蒼真さんの会社の人は、みんな優しい。
九月二十日。麗奈さんがくれるサプリを飲むと、眠くて仕方ない。陽翔の夜泣きに、気づけなかった。でも、せっかくくれたから。
十月二日。袋に、麗奈さんの名前が書いてあった。病院のお薬の袋。サプリじゃないの? 聞けなかった。蒼真さんに言ったら、気にしすぎだと笑われた。
十月九日。蒼真さんは、私の日記を読む。だから、大事なものはここにしまう。この鉢の下なら、誰も見ない。花が咲いたら、陽翔に見せよう。
字は、そこで終わっていた。
切れ端のあいだから、写真が一枚、すべり落ちた。
この温室だった。
同じ月下美人の鉢の前で、若い女の人が、赤ちゃんを抱いて笑っていた。
肩までの柔らかい髪。少し下がった目尻。
腕の中の赤ちゃんの、くせっ毛。
紗季さん。
この家のどこにも、一枚も残っていなかった顔を、私は、初めて見た。
よう笑う人だった、と源さんは言った。
本当に、そうだった。
懐中電灯を持つ手が、震えた。
この人は、知らなかった。
自分が何を飲まされているのかも、誰に殺されるのかも。ただ、聞けなかったことを、聞けないまま、土の下にしまった。
私と同じ鉢の下に。
同じ男の妻になって、同じように、夫の目の届かない場所を探して。
花が咲いたら、陽翔に見せよう。
その一行を、私は、指でなぞることができなかった。
*
離れの縁側に、灯りがついていた。
榊さんは、戸口に立っていた。
左手に、白い包帯が厚く巻かれていた。
私は、缶を袋ごと差し出した。
榊さんは、すぐには受け取らなかった。
懐中電灯に照らされた私の顔を、しばらく見ていた。
「……泣いたのか」
「いいえ」
「そうか」
それ以上、聞かなかった。
包帯の手ではなく、右手で、缶を受け取った。
自分の胸に、抱えるようにして。
「中に、写真がありました。紗季さんの」
「見るのは、明日にする。……あなたが、もう見たなら」
ムギが、戸口の奥から鼻を出した。
私の手袋の指を、一度だけ舐めた。
「今日は」
榊さんが、言いかけて、やめた。
明日が終わったら、と言った人だった。
その明日は、もう、終わっていた。
「今日、言うつもりだった。……だが、今夜は言わない」
榊さんは、缶を抱え直した。
「あなたが、それを抱えたままの顔をしているあいだは」
私は、頭を下げた。
ほっとしたのか、残念だったのか、自分でもわからなかった。
*
温室に戻り、穴を埋めた。
土をならし、鉢を元の場所へ戻す。
底の丸い跡に、ぴたりと合わせた。
平たい葉の先に、手袋の指で触れた。
「預かりました」
小さく、そう言ったときだった。
温室の扉が、軋んだ。
振り向くと、入口に、白いガウンを羽織った麗奈が立っていた。
懐中電灯もなく、裸足に、サンダルをつっかけて。
麗奈は、私を見なかった。
私の後ろの、月下美人を見ていた。
「その花」
声が、昼間の笑い声とは別人のように、低かった。
「明日、捨てるつもりだったの」
コメント
1件
あ〜第61話、読み終わった……重たいけど、すごく良かった。 花園家の闇がまた一つ明るみに出た感じ。紗季さんの手記と写真、そしてあの鉢の下に"もう一つ"あった缶の意味が全部つながった瞬間、背筋が冷えたわ。 最後の麗奈の「その花、明日捨てるつもりだったの」って台詞、あれが一番怖かった。今までのお嬢様キャラが一瞬で剥がれた感じ。この家の女たちはみんな"黙る"ことを覚えさせられてきたんだな…って切なくなった。 蒼真と麗奈、この二人にどう決着がつくのか、次話が待ちきれない🔥