「二次会、行こうと思ってたのに!」
タクシーの中で、馨が言った。
彼女がどれほど酒に強いかはよく知らないけれど、二次会には行かせない方がいいのは確かだった。
それは平内も同意見で、俺が捕まえたタクシーに馨を押し込んでくれた。
「後はお願いしますね、部長」
「ああ」
「さっきはちょっと悪乗りしちゃいましたけど、私、本当に嬉しいんです。馨には、今度こそ幸せになって欲しい」
『今度こそ』という言葉が引っ掛かった。
「その為の協力は惜しみませんから! じゃあ、失礼します。あ、運転手には馨の家の住所を伝えましたから」
平内はひらひらと手を振って、二次会に向かう面々の元に走って行った。
酒、強いな。
俺が乗り込むと、タクシーは馨の家に向かって走り出した。
馨は俺の肩にもたれてうとうとしていた。俺もそれなりに飲んだが、目が冴えていた。
馨の家に行くのは初めて。送るだけで帰るつもりはなかった。
だから、当然の如く、馨のアパートの前で金を払い、降りた。
「え? 何で雄大さんまで降りるんですか?」
少し眠ってすっきりしたのか、馨がはっきりと言った。
「お前ん家、泊めてもらおうと思って」
「いや、明日も仕事だし!」
「わかってるよ。六時までには帰るよ。姉さんの朝飯の用意もあるし。とりあえず、中入ろうぜ」
まさかとは思ったが、馨のアパートはオートロックではない。玄関前に防犯カメラすら、なかった。
鍵も、普通の先がギザギザしているもので、鍵穴は一つ。
「お前、もっといい部屋に住めるだろう?」
「え?」
「マンションを買えるくらいの給料はもらってるだろ」
「ああ……」と言って、馨は鍵を回す。
「通勤に便利なんで」
「それにしたって、危ないだろ。すぐにでも越してこい」
馨はドアを開けながら、俺を見上げた。
一昨日、同じことを言った時は『もし結婚しなかったら?』と言われた。
また、同じことを言ったら、生理だろうが構わず押し倒してやろうと思った。
「お姉さん、いるんでしょう?」
意外な答えに、少し驚いた。
これだけ根回ししたんだから、さすがにつべこべ言わねぇか。
「明日には帰る……はずだ」
「はず?」
「恋人が迎えに来るか……、見切りをつけて家探しするか」
「じゃあ、お姉さんが帰ったら教えてください」
「ああ」
あっさり受け入れられて少し拍子抜けしたが、もうじき一緒に暮らせると思うと、嬉しくなった。
女と暮らすなんて、煩わしいと思ってたのに……。
馨の部屋は木材の家具で統一されていた。すべてナチュラルカラーで、温かみがある。カーテンはグリーン、ソファはブラウンの布張りで三人掛け。
「へぇ……」
「何ですか?」
「いや、お前ってこういうの好きなんだ?」
馨はジャケットを脱ぎ、ダイニングの椅子に掛けた。俺も同じようにする。
「そうですね。コーヒーでいいですか?」
「いや、水でいい。このソファ、まだ新しい?」と言いながら、座る。
「三か月くらい前に買いました」
「いいな。これ。持って来いよ?」
「ソファ、二つもどうするんですか?」
馨が差し出したミネラルウォーターを受け取り、キャップを捻る。
馨は俺の隣に座った。
「お前の部屋に置けばいい」
「私の部屋?」
「姉さんが泊まりに来た時用の部屋を空けるから、お前の部屋にすればいいよ」
壁越しに若い男の笑い声が聞こえる。
「もしかして、ヤってる声とか聞こえる?」
「隣とは間取りが逆なんで、あんまり聞こえません」
「あんまり……かよ」
「リビングでシてる時は、たまに……」
自慢じゃないが、俺はこんなに壁の薄い部屋に住んだことがない。家を出た時は学生で、親がマンションを用意した。今のマンションに引っ越したのが四年前で、既に課長になっていたから、ローンの支払いもすんなり通った。
「ホントに泊まるんですか?」
「嫌なのかよ」
「そうじゃないですけど……」
「まだ生理だって言うんだろ? わかってるよ」
「じゃあ、先にシャワー使ってください。着替え、出しておきますから」と言って、馨がペットボトルのキャップを締める。
「着替え?」
「あ――」
馨がハッとして、目を逸らす。
「元カレのじゃねぇだろうな?」
「違います。その……元カレ用に買っておいたんですけど、新品なんでそのままになってたんです」
「ふぅん……」
俺が顔を近づけると、馨が後退った。
うなじに手を回し、グイッと引き寄せる。そのままキスをする。
「ん……」
舌を入れたい衝動を抑えて、唇を離した。
「俺用に買っておいたってことにしといてやるよ」
女の家に行ったことがないわけではない。俺は自分の家に女を入れるのが好きではないから、泊まるのは女の家かホテル。女の家にいてもホテルと同じ感覚で、手料理を振舞われたこともあるが特に何も感じなかった。
それが、馨だけは違った。
二人で定食屋でうどんを食べた後、過呼吸を起こした馨を自分の家に連れて行くことに何の躊躇いもなかった。それどころか、このまま閉じ込めてしまいたいとさえ、思った。
本気で。
溺れる、という感情。
何の意味も見出せずにいた結婚も、嫌悪していた実家とのしがらみ、そして束縛。全てを覆すだけの執着。
馨を、俺のモノにしたい。
俺だけのモノにしたい――。
その為なら、俺のこだわりや自尊心なんてくだらないと思えた。
早く、早く――――。
「とりあえず、俺んとこ来いよ」
シングルベッドで馨を腕に抱き、言った。
「家具は後でいい」
「桜が帰国している間はこの部屋に泊まらせるつもりなんですけど」
忘れていた。
「じゃあ、部屋の解約はその後ってことで、桜が帰国するまでは俺のとこにいろよ」
「……はい。けど……」
「ん?」
「桜は黛と一緒にいたいって言ってて……。ダメだって言ったんですけど……」
『うっかり子供が出来るとか、ありがちだよな?』
黛の言葉を思い出した。
言っていないが、馨と黛の会議室での会話を聞いていた。黛が馨に俺と別れろと迫ったことも知っていた。馨が何と答えたかも。
『私は雄大さんとは絶対に別れない!』
会議室に飛び込んで行きたい衝動に、必死で耐えた。
嬉しかった。
馨が桜を守るために俺と別れることを受け入れなかったこと。
俺と別れないと言い切ったこと。
静岡のホテルで、黛と何を話したか聞いた時、馨はその話に触れなかった。だから、俺も知っていることを話さなかった。
俺は馨の気持ちを確かに知っている。
それだけで、いい。
「桜の帰国は?」
「多分二週間から三週間後」
「じゃあ、それまでに籍を入れよう。んで、立波の親戚にも挨拶をする」
「雄大さんは……立波リゾートの社長になりたいの?」
Tシャツ越しに感じる馨の手の温もりがもどかしい。
直接、触れて欲しい。
けれど、今はダメだ。
出張から始まって、ただ馨を腕に抱いて眠るのは、拷問だった。今日は特に。
どこもかしこも馨の香りと気配を感じて、落ち着くようで落ち着かない。だとしても、帰る気なんて微塵もなかった。
「なってもいいと思ってる」
少し卑怯な言い方だが、本心だ。『なりたい』とは思わない。けれど、馨の為なら『なってもいい』とは思う。
「今の仕事を辞めてもいいの?」
「いいよ」
「そんなにあっさり?」
「仕事は好きだけどな。正直、色々考えてた」
「色々って?」
「独立とか」
「そうなの?」と言って、馨が顔を上げた。
上目遣いがたまらなく可愛い。
「選択肢のひとつとして、な。それより、お前はいいのかよ」
「何が?」
「おまっ! 俺にだけ立波で働かせて、お前は今の会社に残るつもりじゃねーだろうな」
「へ?」
「社長夫人は働かねーの?」
「……」
馨が目をパチパチさせる。
おい、まさか……。
「馨」
俺は馨の腰を掴み、グイッと引き上げた。目線を合わせる。
「お前、自分のこれからのこと、考えてるか?」
「え?」
「はぁぁぁ……」と、思わず特大のため息が出る。
「仕事では常に三歩先まで読めるのに、どうして自分のことは考えもしないんだよ」
俺は身体を起こして、座った。馨も。
「馨。お前自身が立波の社長になることは考えたか?」
「はぁ?」
何とも間抜けな声。
「そんなこと出来るわけ――」
「どうしてそう思う? そもそも、立波一族と血の繋がりのないお前たちの、しかも夫を社長になんてこと自体、おかしな話なんだぞ? なら、お前自身が社長になる方が、まだ筋が通るんじゃないか?」
本当に、全く考えたこともなかったようで、馨は表情を固めてしまった。
「お前が専業主婦になりたいとか、妊娠したとかでないのなら、俺はお前をそばに置くつもりだ」
「え……?」
「お前の能力を買ってるんだ。秘書でも副社長でもいいさ。俺の目の届くところにいろ」
ポカンと口を開け、瞬きすら忘れた彼女の頬を親指と人差し指でつまむ。
馨が目を細めて顔を歪める。
「いたっ! なに――」
「聞いてんのか?」
「聞いてるけど――」
「じゃあ、返事!」
「え? 何の?」
こいつ……!
どうしてこう、プライベートでは抜けまくってんだ!?
「だから! 俺のそばにいるんだよ! いつでも、どこでも、一生!!」
「何、それ――」
「へ、ん、じ!!」
俺は指に力を込める。
「ひゃい!」
馨の頬には、ほんのり赤く俺の指の痕が残っていた。
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