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夜の闇が深くなる前に、シリウルは彼女の住居に帰っていきました。
暫く夜空を眺めていると、ふと彼の頭にあらゆる心配事が駆け巡りました。
連れ去られた彼の者たちの事、自分の国の事、はたまたいつ帰れるか等など、一つだけで頭を抱えたくなるようなことが重なっていました。
そうしてボロミアは彼自身が犯してしまった過ちを思い出してしまって、傷つけてしまった仲間の為にできることはないか、いつになったらここを出られるのか、と突然どっと悲しくなりました 。
自分がのどかに過ごしている間に彼らが苦しんでいるのではないかと、思えば思うほど辛くなります。
そして償いとなるような事はしたとはいえ、彼はできることなら面と向かって謝罪をしたい、そして力になりたい、そう思いました。
それならば彼はまずシリウルに言われたように、傷ついた身体を癒し、また戦場で奮い立てるように今は休もうとそっと目を閉じ、今までの眠りの中で一番と言えるほど深く、安らかな眠りを得ました。
ボロミアはこの様な一日を三日過ごして、やっと起きれる様になると軽く周りを散歩し始めました。
彼女が言った通り、森は入っても新たな所に出ることは無く、元の場所に戻ることしか出来ませんでした。
シリウルは存外心配性で彼が無理をすると直ぐに察知して彼を母親のように叱りつけるので、あまり遠くまでは行こうとせずに戻りました。
ここは綺麗な所でしたが、華美な程ではなかったので慣れたらかなり落ち着ける様になり、度々穏やかな昼寝をする程でした。
ただこれほどに過ごしやすい環境でも、彼の頭にはやはり心配事が常にありました。時に彼を苛む様な響きを持ち、彼は魘されました。
ただ彼に苦しい程に魘されるまでになると、決まって月光の様に冷たい手が彼の額に走り、そっと撫でて落ち着けました。
彼が苛まれると同時に柔く、されども暗い闇が彼に押し寄せると、またまじないが唱えられ、闇は速やかに退けられました。
そうして眠りを得たあとは決まって、その事を忘れてしまいました。
度々同じようにして彼女が食べ物を持って訪れる時、少しずつたわいのないことを話すようになっていました。ボロミアは彼の生い立ちを軽く話し、また彼の国が美しい事を彼女にこう話しました。
「私の国は多くの建物が白い建材で作られており、夜は月の光を反射して町中がとても美しくが光るのです。高い所からその景色を見るとなんとも圧巻で、私は戦いに身を置く時もその景色を思い浮かべて糧にしておりました」
ボロミアは今もその景色を思い浮かべながら詳細に解説すると、彼女は大いに興味を示してくれました。
シリウルは何の話題でも旅の話を聞きたがる少女のように喜ぶので、彼はついつい饒舌になり、会う度にだんだん話すことが増えていき、ついには彼の生い立ち全てを話しきってしまうほどになりました。
ただ、重症を負うきっかけとなった指輪の旅の話は一切しておりませんでした。
ボロミアは旅の仲間の消息を、特にフロドの事を聞きたかったのですが、それには指輪の旅の本質の片鱗を見せなくてはなりませんでした。
シリウルを信用していないわけではありませんでしたが、守秘義務が課せられていたので、何人かで旅をしていて、仲間が連れ去られた、というようなことしか明かしませんでした。
シリウルは彼の話を親身に聞けど、彼女から何かを問うことはただの一度もありませんでした。彼に言いたくないことがあるのを察してくれているのでしょう。
彼女自身はもっと色んな事を聞きたいだろうに、彼にそんな素振りを見せたことはありません。
そんな様子は、元から恩返しを何かするべきだと思っていたのもありますが、特にもっと何かをしてやりたい、という様な気分に陥らせるのでした。
なので彼女が物を運ぶのを手伝ったり、何かできることはないかと申し出てみたり。
ボロミアは精一杯報いようと試みたのですが、ことごとく断られて中々達成できません。
もとよりシリウルは何も求めてないのですから、無駄に何かを申し出ると逆に迷惑になる、等という複雑な出で立ちだったのです。彼女に報いる事のあまりの難しさに、密かにボロミアはそれを難問とし、解くことを目的にして楽しみを見出していたのでした。
その為にはまず相手を知らなければ、と思いボロミアは彼女にまた質問攻めをすることになるのですが、それも彼女に迷惑になるのでは?という認識は探究心によって消えていました。
とはいえシリウルは欠片も迷惑がることはなく、次はどのような質問が来るのだろうか、と心待ちにしている次第でした。
「……貴方はどれだけの時をここで過ごされたので?」
ただそう彼が問うと、彼女は少し困った顔をして曖昧な返答をしました。
「さぁ、正確に数えたことは無いのです。ただ私が生まれたその時は、丁度離れ山の龍が打たれた頃合だと、かつて父は言っていました」
「……それでは貴方は少なくとも二回りは年上なのですね。やはりエルフは外見で判断しては行けない」
「私の様な混ざり者は、少なくとも百二十年程は生きると言われています。エルフ達にとっては大したものではないのですが、あなた方にはとても長い時に感じるでしょう」
「……ああ確かに、あなたの威厳がどうして形作られたのか、少し垣間見えた気がします」
ボロミアがそう返すと、彼女は切なく遠くを見るような表情をしました。
そこから彼は次の言葉を探して黙りこくってしまったのですが、直ぐに彼女はボロミアに視線を戻すと、何でもなさそうに次の質問を乞いました。
彼女の様子が気になりましたが、ボロミアは話を続け、時間が来るまでずっと話し込んでいました。
シリウルは度々、こうした悲しい表情を浮かべることがあるのですが、それはあまり関連性がなく、避けようとも未知数で出来ないというような状態でした。
それでもシリウルが何も望む素振りを見せないのなら、せめて彼女を楽しませようと、ボロミアは励んだのでした。
「——二割ほどは治っていますね、ここは包帯を取れそうです。それにしても予想より随分と早いこと、やはりあなたがお若いからでしょうか」
「西方の血を次ぐ人間としても、私の年はそう若くはないですよ。それに傷の経過が良いのは、どう考えても熱心に看病してくださったレディのお陰だ」
「では私は太陽とあなた自身の活力のお陰だと言いましょう。この調子なら、私が最初にいった月日よりも大分早く治りそうです」
「なんとそうですか!それは喜ばしい、ああ……でも」
「?でも、とは」
「いえその、あなたに何も報いられないまま帰る事になってしまうのではないか、と思いまして」
ボロミアが正直にそう申すと、シリウルは軽快な笑いを響かせて、彼の手を労わるように撫でながらこう言いました。
「そうですね……貴方が早く回復して、そうして長く生きて下さるだけで、私には不滅の喜びとなります」
それでは自分が得するだけではないか、とボロミアは更に悩み、どうすれば彼女に報いる事が出来るのか考えました。すると妙案を思いつきました。
まぁそれでも彼が受けた恩に比べると囁かな物ですが、シリウルの意識を尊重した上でできる最善はそれだったように思えたのです。ボロミアはこう言いました。
「では貴方以上に彼の地でも貴方を思いましょう。貴方の家の平穏を、豊穣を、貴方の心に悲しみの陰りが入ることのないように」
言い終えるとシリウルに対して跪き、彼女の細くしなやかな手を拾って、その上に口付けました。
一連の動きを終えて彼女を見上げると、そこで初めて気づいたかの様に肩を跳ねさせ、頬を染めました。
珍しく動揺しているシリウルを見つめていると、彼女は直ぐにボロミアを立ち上がらせて、彼の膝に着いた砂埃をパッと払いました。
そして今度は彼女が彼を見上げてこう返してくれました。
「貴方がそう望むなら、私は受けましょう。貴方の元にも同じくその全てがありますように」
そうして彼が見た中で一番美しく、暖かな笑みを見せました。
魅せられながらもボロミアは同意し、シリウルの腕をそっと抱いて引き寄せ、近くで見つめ合いました。その時は丁度日が一番高くなる頃合で、彼らの誓いを祝福する様に暖かく包み込みました。
ある日シリウルは彼女が一番信頼を寄せている鷹、スールロスより一報を受けました。スールロスはとりわけ頭が良く、常に冷静で親和力も高くシリウルは彼をとても重宝していました。
スールロスは彼女に見聞きしたことを詳しく伝えてくれました。
シリウルはその内容を聞いて、戸惑いました。というのもその一報が、扱いに困るほど重大なものだったからです。簡潔に言いますと、ゴンドールのオスギリアスの西岸が取られ、続けて何日かでランマス・エホールの外壁からペレンノール野の一部まで突破された、というものです。
そこまで突破されてしまえば、渡るのは容易でこれからのゴンドールの戦況は一気に不利になるでしょう。
シリウルはこのどうしたものか迷いました。
ボロミアはどんな報でも伝えて欲しいと言っていたのですが、シリウルは彼の心をいたずらに乱すべきではない、と思っていたのです。
ただもし隠せば勝利しても知らせることはできませんし、彼の意志を無視することになるのでした。
シリウルはしばらく押し黙り、悩んだ末にボロミアの意思を尊重して彼に告げることにしました。
彼女はスールロスを彼の寝床で休ませ、ボロミアがいる治癒の野に歩を進めました。
時間はちょうど夕方になる頃合で、時が経つにつれ徐々に暗くなっていく様子が、近づくにつれて心に影が指す彼女と合わさりました。
ボロミアは軽く身体を起こして、頬杖をついて空を眺めていました。
シリウルが彼の目の届く範囲に入ると、直ぐに気づいて彼女の元に駆け寄ろうとしました。シリウルは手の動きで来なくていいと諌めるて、彼女から近くに寄ってボロミアを真っ直ぐ見つめて、言いました。
「オスギリアスが奪われました」
ボロミアは目を見開いて、彼女の方を食い入るように見つめました。
一瞬で彼の表情は辛そうに歪められ、目を逸らすと手を強く拳の形に握り言いました。「……それでは済むまい、それから?」
「それから、ランマス・エンホールの外壁からペレンノール野まで突破された模様です」
「では包囲されるのも時間の問題だろう」
「……ええ」
シリウルは彼の気持ちがよく察せました、でも後悔は不思議としなかったのです。
彼の瞳は悲観にくれずに、むしろ強く燃え盛っていました。そしてばっと何かを振り切るようにしてボロミアが顔を上げて言いました。
「シリウル殿、知らせてくださってありがとうございます。いま私にできることは仲間の武勇を祈ることだけですが、それでも少しは役に立ちましょう」
「……では私も祈ります、あなた方に勝利ありますよう、闇に一矢報いる事ができますよう」
「ありがとう、レディ」
そう言うとボロミアはそっとシリウルの両手を包みました。たちまち彼女の中に今まであった不安が全て消え失せて、シリウルはそっと息を吐きました。
闇はますます勢力を増し、その戦略も秀逸です。シリウルは戦いに関わることはないのですが、彼は違います。
彼はゴンドールに戻るべき人で、ここに居るべきではありません。ただ戻ってしまえば、彼女の願いである彼の長寿が達成される見込みは大きく下がるでしょう。
シリウルは、彼と離れがたく思っていました。よく話し、よく笑い、そして気遣いに秀でている。
それでいて時々鈍く、的を得ない事を言う、そんな彼との暮らしは常に日が差しているようでした。それも今まで一人で暮らしてきた彼女には、眩しすぎる太陽です。
シリウルは来るべき時が来たら、彼を送らなければならない、と思っていました。戦から離れ、守られた野で依然と戦の只中にいるように、燃え盛る彼の目を見てしまいましたからことさらに。
彼女は自分の住居に戻ると、十分に休憩をとったスールロスをまた放ちました。そしていつ別れの時が来てもいいように、秘めたる森からゴンドールへの道を考慮し始めました。
一日経つとボロミアは既に平静を取り戻していました。朝食を済ませて、片付けていた時にボロミアは彼女に一声かけて去るのを引き止めました。
「少し、話していきませんか」
いつもとは違ってとても静かな響きの声でした。シリウルは手を止めて、椅子に腰かけると、目で彼に続きを施しました。
「今日も快晴ですね」
ボロミアが空を見上げたので、同じようにすると、まるで絵画のように美しい空がありました。彼女は光を掴もうとするかのように手を伸ばして、光が遮られて明滅するのを見るとそっと下ろして言いました。
「まことに、いい天気です。雲ひとつないですわ」
「……そうして佇まれていると、本当にエルフかと見間違います」
突然の言葉にシリウルは目を瞬くと、なんだか面白くなって微笑みながら言いました。
「そうですか?」
「ええ、誰もがそう信じて疑わないでしょう。エルフに似た存在、と前に結論を下しましたが、実の所どうなのです?」
「だから混ざり者にすぎませんわ、でも詳しく言うとしたらそうですね……少なくとも一割ほどはエルフの血が入っているのでしょう」
そう言ったシリウルは、どこか冷めていてきらめく刃物のように鋭くボロミアの目に写りました。そして悲しそうにも見えました。
「あなたは、度々悲しそうな顔される」
「……悲しそう、ですか」
「あなたはその血を疎ましく思っているのですか」
ボロミアの一言は、その実確信を得ていました。シリウルは弾かれたように驚いた顔をすると、目を逸らしてこう言いました。
「私の一族の歴史は一世紀まで遡らなければならないほど長いのです。ですからあまり多くは語りませんが、一つ言うとしたら私は罪人の血を引く者だ、ということです。ですから私は一人でした」
シリウルは続けて言いました。
「疎ましく思ったことがない、といえば嘘になりますわ。最初に罪を犯した先祖を恨んだこともございます、惨めだと、思ったことも」
「私の気持ちを言うと、罪人の血を引いていようが、私はあなたをとても美しいと思う」
ボロミアは彼女の言葉に重ねてこう言いました。迫られたシリウルは、言われた言葉を最初は飲み込めず、目をぱちくりさせていました。そんな彼女を真っ直ぐ見つめながらボロミアは続けました。
「見た目だけではなく心根も特に、私は何度もあなたに助けられた。
血を誇りに思えないのなら、あなたが成した善行を誇りに思ってみて欲しい。私は、誇りを人の心に必ず必要なものだと思っている。あなたにも恍惚とするような気持ちを感じてもて欲しい」
そこで彼は言葉を区切りました。ボロミアが何故、そんな事を言ったのかシリウルにはわかりませんでした。
それでも不思議と、それが全く難しくない事だと思えたのです。また幸せな事だとも思えました。シリウルは深く自分の心に彼の言葉を落とし込むと、一言彼に返しました。
「……気が向いたら、言われた通りにしましょう」
言った言葉の響は少し冷めたものでしたか、彼女に確かにその気があるのを見通したのか、ボロミアは大きく微笑んで、彼女を軽く抱きしめました。