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「ただいま……」
いつもよりやけに重く感じるドアを開ける。
短い廊下を抜けて、リビングダイニングに入る。
南側にあるバルコニーに面した掃き出し窓から入る光の量は同じはずなのに、隣の城咲の家と比べるとやけに暗い気がするのは、彼の家に比べて暗い家具が多いからだろうか。
「おかえり」
ダイニングテーブルに座りながらコーヒーを飲んでいた輝馬が複雑そうな顔で振り返る。
「ただいま」
紫音は軽く視線を走らせた。
凌空は部屋にでもいるのだろうか。姿が見えない。
父は休日の日でもいないことが多いので、おそらく今日も外出中だろう。
ーーママは?
母も活動的な人間だ。
専業主婦ではあるが、家で一日ボーっとしていることなどまずない。
しかし今日は兄がいる。
母の大好きな輝馬がーー。
「連絡くらいよこせよ。心配するだろ」
輝馬は立ち上がると、紫音の頭に手を置いた。
「昨日は紫音と酒でも飲もうかと待ってたのに」
「ごめん……。なんか女友達の家で飲んでたら終電なくなっちゃって。飲みすぎていつ寝ちゃったのか、記憶にないんだ。朝起きてシャワー借りてから来たから遅くなっちゃった」
多少説明くさいだろうか。しかしおかしくはないはずだ。
矛盾しているところもないつもりだった。
それでもその言い訳を聞いた輝馬は、少し悲しそうな、取り繕った笑顔を見せた。
「お兄ちゃ……」
「紫音」
とそのとき、キッチンのほうから低い声が響いた。
「……ママ」
振り返る。
シンクの前に立っていた彼女の手には、昨日紫音が持っていたカゴバックが握られていた。
「先ほど、雨宮さんが届けてくださったのよ」
晴子は紫音を睨みながらそのバッグをウォールナットのフローリングの上にどさっと落とした。
「女友達なんて嘘。雨宮さんと一緒にいたんでしょ」
「…………」
晴子の声は耳に入ってこなかった。
深雪がこの家に……?
(どうして……。なんで家を知ってるの?)
もう学校にさえ行かなければ大丈夫だと思っていたのに、家を知っているとなると話は別だ。いつでも訪ねてこれるし、道中で待ち伏せもできる。
(どうしよう……!)
胸の前で両手を握りしめた紫音を、晴子はいよいよにらみ落とした。
「それだけじゃないわよ、あんた。雨宮さんの家で、とても高価な陶芸作品を何個も割ってきたらしいじゃない?」
「え……、だってそれは……」
「はいはーい、ちょっと失礼しますねー」
とそこで晴子と紫音の間を、凌空が通り過ぎた。
「PCがやっと起動したもんで!これで多分イケるって思ったんだけど、あ、ほら。再生!」
そう言いながらダイニングテーブルの上にノートパソコンを開く。
モニターに映し出されたのは、深雪の家で陶芸作品を床にたたきつけて壊していく紫音の姿だった。
「!」
あの不気味なほど白い部屋のどこにカメラが仕込まれていたのだろう。
音は入っておらず、画面の中の紫音は狂ったように陶芸作品を破壊し続けている。
「……雨宮さんに色々聞いたわよ」
晴子は紫音を睨みつけながら続けた。
「ほかの女の子と仲良くしているのを見たあなたが嫉妬して、彼のマンションで暴れたらしいじゃないの」
嫉妬?
暴れた?
何を言っているんだろう。
「あなたが破壊した作品の中には、雨宮さんが陶芸の師匠さんからいただいたそれはそれは大切な陶芸作品も含まれていたそうよ」
母の手は怒りにあまり震えている。
「雨宮さん、今後は弁護士や警察との相談も視野にいれてるって言ってたわ。あなた、これからどうやって責任をとっていくつもりなの……!」
弁護士?警察?
嘘だ。そんなことをしたら困るのは深雪自身だ。
「――ママ、違うの……!」
「親にお金払ってもらって学校に通っている学生の身で!自分の行動に責任も持てないガキのままで!色気だけは一丁前に、男と遊んでんじゃないわよ!!」
母が怒鳴る。
輝馬が小さく息を吐き、凌空がこみ上げる笑いに口を押える。
沈黙が続き、空気清浄機のモーター音だけが20畳の空間に響いた。
「――ママ」
紫音はやっと口を開いた。
「ママ。私の話は聞かなくていいの……?」
紫音の言葉に、晴子が目を見開く。
「雨宮先輩の話は本当かもしれない。でも、違うかもしれない。それならまず話を聞いてみよう。そうは思わなかったの?」
「はあ?こんな証拠まで残ってるのにあなたは……!」
「もし、これが!」
想像以上に大きな声が出た。
しかし紫音は止まらない。
「お兄ちゃんだったら!?」
輝馬が心配そうに紫音を見つめる。
「凌空だったら!?」
自分に話題が及んで、凌空が大きな目でこちらを見上げる。
「それでも今日初めて会った男の言うことを信じて、こんなに頭ごなしに叱りつけた!?」
「ーー話をすり替えるんじゃないの。今はあなたの話をしてるんでしょ!」
晴子の顔がいよいよ歪んでいく。
「そう!私の話をしてるんだよ!!」
悲鳴のような声で叫びながら紫音は母親を見つめた。
20年間、母に聞きたかったこと。
「……ねえ、ママ……」
20年間、母に聞けなかったこと。
「私のこと……好き?」