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夜。部屋の中は静かだった。
灯りもつけず、布団にも入らず、遥はただ膝を抱えて座っていた。
窓の外では、虫の声がかすかに響いている。
けれど、遥の耳には何も入ってこなかった。
──日下部の顔が、離れなかった。
昼の沈黙。目を逸らさなかった眼差し。
「綺麗」なんかじゃないのに、まるで汚れてないように見えた。
(違う……あんなやつじゃ、ない。あいつは、俺を──)
思考の途中で、扉が開いた。
「……また暗い部屋で、膝でも舐めてんの?」
蓮司だった。
何の前触れもなく、何の躊躇もなく、当たり前のように踏み込んでくる。
遥の“部屋”ではあるが、そこに鍵などない。
(鍵なんて……あっても、意味ねぇけど)
蓮司は、笑っていた。
声には、まるで悪意がなかった。
ただ、愉しんでいるだけだった。
「さーてと。今日の“中身”、どこまで崩れてんのかな」
遥は答えない。
蓮司の言葉は、挑発でも脅しでもなく、ただの観察記録のようだった。
「……あー、そっか。日下部に“やさしく”されたんだっけ?」
その言葉に、遥の肩がわずかに揺れた。
「……うるせぇよ」
「ねえ、“ああいう”優しさって、どう思う?」
蓮司はしゃがみ込み、遥の目線に合わせた。
顔が近い。吐息が肌に触れそうな距離。
「罪滅ぼしじゃない? あいつ、昔おまえにけっこうひどいことしてたでしょ? ……忘れたの?」
遥は、何も言わなかった。
反論しない。けれど肯定もしない。
「それとも……あれが“本気”に見えた?」
蓮司の手が、遥の頬を撫でる。
優しく、けれどどこか嘲るように。
「本気で、おまえのこと“守ろう”とか思ってるって、信じてるの? ……バカじゃん」
遥は、顔をそむけようとした。
けれど、蓮司の手が顎を押さえた。
「本音なんてさ、ばれたら終わりだよ。……“抱かれたい”とか思ってんでしょ? あの綺麗な顔した日下部にさ」
遥の目が、大きく見開かれた。
息が詰まる。
口がきけない。
「言えないでしょ? そりゃそうだよな。言ったら“おまえの世界”が全部崩れる。……アイツの優しさも、居場所も、なにもかも」
蓮司の声は甘く、残酷だった。
「……おまえがどんなに“壊されたい”と思っても、あいつはたぶん“壊しちゃくれない”。そういうやつだもん。……優しさで、地獄から救おうとするバカだ」
遥の指先が震えた。
(……やめろ)
「けど、俺は違う」
耳元に、蓮司の唇が触れる。
言葉の熱が、肌に刻み込まれる。
「俺は、おまえが壊れたいなら、喜んで“壊してやる”。……ずっと、そうやってきたじゃん。今さら何、迷ってんの?」
遥は答えない。
ただ、目を閉じた。
目の奥に浮かぶのは、あの屋上のまなざし。
けれど──
蓮司の指が、肌を撫でるたび、
その記憶すら、汚されていく気がした。
(……ああ、また)
“自分のままでいたい”と思ったのは、いつからだっただろう。
“守られたい”と願ったのは、
“壊されたい”以上に怖いことだった。
「……おまえさ、ほんとに欲しいもん、言えよ」
蓮司は笑いながら、囁いた。
「じゃないと……日下部も、おまえを勘違いしたまま壊すかもね?」
遥の中に、何かが裂ける音がした。
その夜もまた、何も言えないまま、侵食は続いていった。