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「しまった……、ペン」
家を飛び出してから、どれほど時間が経ったのか判らない。
体感的には然程でも無かったが、呼吸の弾み方からして、すでに相当な距離を走ったのだと、今さらに知った。
そこで、私の手のひらが、後生大事に愛用のペンを握りしめていることに気づいた。
窓辺に寄った際、無意識に掴み取ったのだろうか。
本当に大切な物なので、落としでもしたら洒落にならない。
「………………っ」
すこし迷ったが、やはり自宅の方角へ足を向けるのは、どうしても憚られた。
“待っとうせ……”
女の寂れた声を思い返し、時季も弁えず身震いする。
これを剋して、わざわざ引き返すほどの度胸はない。
「待っとうせ…………」
「ひゃ……っ!?」
矢庭に、すぐ耳元で声がしたように感じたものだから、思わず悲鳴が出た。
体勢を損ない、トスンと尻餅をつく。
そんな無様を恥じる間もなく、視線を辺りに巡らせる。
変哲のない夏の夜。
変わらない町並みがあって、見慣れた風景がある。
その直中に、恐ろしい顔つきの異客が、ひっそりと紛れ込んでいた。
ところは、すぐ側に茂る生垣の陰だ。
「待っとうせ…………」
「いや……、ごめんなさい」
とりあえず謝ってみるものの、それで事態が好転する筈もない。
「待っとうせ…… 待っとうせ……」
ペタペタと足音を鳴らし、物陰を脱した女は、私のほうへ少しずつ歩を進めた。
胸元には、例の品を大切そうに抱えている。
その模様が何とも恐ろしく、たちまち心胆が凍えた。
同時に、腹の底から言い知れない怒りが湧いた。
走行中の自動車にも追い付こうかという、彼女の身体能力である。
その気になれば、私を捕らえることなど造作もない筈だ。
にも関わらず、こうして無用の恐怖感を演出している。
こちらを完全に侮り、いいように弄んでいるのだ。
「もう……!」
しかし悲しい哉。 力のない一個人は、こういった有事に際して、ただ逃げることしか能を得ないのである。
這う這うの体で夜道を駆け、夜間でも比較的あかるい国道を越える。
運動に不慣れな私の脚だけど、いよいよ行き先を定めたとあって、曲がり形にも達者に働いてくれた。
「待っとうせ…… 待っとうせ……」
しかし、女の声は一向に離れようとせず、ピタリと背中に付いてくる。
速度を落とせば終わりだ。
そういった危機感を念頭に、命からがら突っ走る。
母校の脇を通過し、長いこと慣れ親しんだ生活道路を駆け抜ける。
市の東部へ通じる広いバイパスを、不格好なフォームで疾走する。
そうして延々と走り続けた結果、ようやくゴールが見えた。
これまで、数々の思い出を紡いだ場所。
私たちの頼みの綱、天野商店だ。
ちょうど、史さんがシャッターを下ろしている最中だった。
その姿を認めた途端、私の視界はぼやけた。
「ふみざぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
「ぬあ!? なんだオメー、なに泣いて」
最後の力を振り絞り、彼の身柄に飛びつく頃には、恥ずかしげもなく号泣していた。