テラーノベル
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資料室兼サンプル保管室は、営業部フロアの奥にあった。
壁一面の棚には、過去製品のサンプルや生地見本、古い企画書のファイルが並んでいる。
「こちらです」
促すと、慧は黙って中へ入った。
続こうとした黒瀬さんを、彼が片手で止める。
「ここからは俺だけでいい」
「承知しました」
ぱたん、と扉が閉まった。
その瞬間、振り返って距離を詰める。
ドン、と彼の顔の横へ手をつき、逃げ場を塞ぐ。
「騙したわね」
至近距離で見上げても、慧は眉ひとつ動かさない。
「言わなかっただけだ」
「それを世間では、隠してたって言うのよ」
口角だけを上げて、さらに距離を詰める。
「全社員の前で“初めまして”なんて、いったいどの口が言ったのかしら?」
「会社では初対面だろ」
「ものは言いようってやつね」
「事実だ」
「普通、昨日の時点で言うでしょ。『明日、会社で会う』って!」
「必要か?」
「必要よ! 心臓に悪いのよ、不意打ちは!」
「なら、効いたな」
「効かせに来るな! 営業妨害よ!」
慧の肩が、わずかに揺れた。
「笑うな!」
「それで? わざわざ資料室まで連れてきた理由は、それだけか?」
「まさか」
バッグから、昨夜持ち帰った書類を引っ張り出す。
「やっとサインする気になったか」
「違う。修正したの」
赤字だらけの契約書を突きつけた。
曖昧だった文言には、これでもかと修正を入れてある。
「……だいぶ赤いな」
「文句ある?」
「ない」
「私生活と仕事の評価は完全に分けること。これも追記しておいたから」
「本当に細かいな」
「営業なめないで」
慧は契約書を受け取り、赤字を追っていく。
「だが、悪くない」
「当然でしょ。私が直したんだから」
「ああ」
慧が契約書から顔を上げた。
「お前が作った条件なら、問題ない」
「……っ」
何よ、それ。
まるで、私の判断を信用しているみたいな言い方。調子が狂う。
慧は契約書をすぐ横の背の高いサンプル棚に押し当てた。片手で紙を押さえ、ジャケットの内ポケットからペンを取り出す。
「ちょっと。まさか、今ここでサインする気?」
「そのつもりだが」
「ちゃんと確認しなさいよ!」
「読んだ」
「今ので?」
「十分だ」
「雑!」
「ここまで赤を入れたなら、大きく外れてはいないだろ」
迷いのない手つきで、修正箇所に署名していく。
「……本当にサインするのね」
最後の条文に、目を落とした。
――夫婦として必要な場面におけるスキンシップは、事前に同意を得るものとする。
「……で、これなんだけど」
その一行を指差す。
「何だ」
「私が嫌だと言ったら、あんたからは触らないってことね?」
「そうだ」
即答だった。
「じゃあ、私からなら?」
「俺が拒まなければ、契約上は問題ない」
「はっ。言ったわね」
慧の唇に人差し指をそっと押し当てた。 そして指を一本挟んだまま、反対側から自分の唇をそっと重ねる。
直接じゃない。
ただの指越しの挑発だ。
「ほら。挨拶なら問題ないでしょ?」
「っ……!」
かすかに呼吸が乱れ、耳の縁が、うっすら赤くなる。
(ふふっ。こういうところは、昔から変わらないんだから)
「赤くなっちゃって……かわいいね」
勝った。
完全に勝った。
そう思って、手を引こうとした。
その時。
「……っ」
逃げかけた指を、捕まえられた。
「……ちょっと!?」
大きな手が、私の手を包み込む。
「挨拶なんだろ」
「え?」
「なら、返す」
包まれた手が、引き寄せられる。
さっきまで、彼の唇に触れていた場所。
そこへ、唇が押し当てられた。
触れるだけの、軽いキス。
それだけなのに。
「っ……」
背筋に、ぞくりと甘い痺れが走った。
(な、なにこれ……!)
慌てて手を引く。
「……俺は書いた」
慧は何事もなかったように、署名済みの契約書を差し出した。
「あとはお前だ」
「はっ、ワンちゃんのくせに生意気な……!」
精いっぱい睨みつける。
「サンプルは右端の棚! 私は忙しいから、一人で見てれば?」
言い捨てるようにして、資料室を飛び出した。
ばたん、と背後で扉が閉まる。触れられた感覚は、なかなか消えてくれなかった。
コメント
1件
第6話、読みました…! 慧さん、会社でもあんなにクールだったのに、あの資料室での攻防、めっちゃ良かったです…! 「指越しの挨拶」で勝ったと思ったら、まさかの返しキスでやられちゃうヒロイン、可愛かったです…(笑) しかも契約書の最後の一文に触れるところとか、あのちょっとした駆け引きが心臓にくる…! あの「ワンちゃんのくせに生意気な…!」って叫びながら逃げる感じ、すごく好きです。続き、気になります…!