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奈良の冬は、空気が澄んでいて、吐く息が白く広がる。大学の期末試験を前に、佐藤悠真は図書館の片隅で参考書を広げていた。周囲は静まり返り、ページをめくる音だけが響く。集中しようとするのだが、どうしても心が落ち着かない。窓の外に見える枯れ木の枝が、風に揺れるたびに視線を奪われてしまう。
そのとき、隣の席にふわりと人影が落ちた。顔を上げると、マフラーに顔を埋めた女性が、そっと荷物を置いて座った。藤井美咲だった。講義で何度か見かけたことはあるが、話したことはない。彼女はノートを広げ、ペンを走らせ始める。真剣な横顔に、悠真は思わず見入ってしまった。
数分後、美咲がふと顔を上げ、悠真と目が合った。 「……あ、ごめん。邪魔してない?」 「いや、全然。むしろ集中できてる」 ぎこちない返事に、美咲は小さく笑った。その笑顔は、冬の冷たい空気を少しだけ和らげるようだった。
それから、二人は自然に言葉を交わすようになった。試験範囲の確認や、教授の癖の話。気づけば、図書館の閉館時間まで話し込んでいた。外に出ると、冷たい風が頬を刺す。美咲がマフラーを直しながら言った。 「寒いね。でも、冬って好き。空気が澄んでるから」 「俺は苦手かな。手がかじかんで字が書けなくなる」 「ふふ、確かに」
その笑顔に、悠真の胸が少しだけ温かくなった。
翌日も、悠真は図書館に向かった。すると、また同じ席に美咲が座っていた。偶然かと思ったが、彼女は「ここ、落ち着くから」と言った。二人は並んで勉強し、時折会話を交わす。まるで昔からの友人のように自然だった。
ある日、美咲がふとノートを閉じて言った。 「ねえ、悠真くん。奈良公園って行ったことある?」 「もちろん。鹿に追いかけられたこともある」 「ふふ、私も。じゃあ、試験が終わったら一緒に行かない?」 突然の誘いに、悠真の心臓が跳ねた。 「……いいよ」 その返事に、美咲は満足そうに微笑んだ。
試験が終わった日、二人は奈良公園を歩いた。冬の鹿は少し気怠そうで、観光客もまばらだった。冷たい風が吹く中、美咲は楽しそうに鹿せんべいを差し出し、悠真はその様子を見守った。
「鹿って、意外と目が優しいんだよね」 「そうかな。俺には食欲しかないように見える」 「悠真くん、そういうとこ冷めてる」 「現実的って言ってほしい」 二人は笑い合いながら歩いた。
やがて、東大寺の大仏殿の前に立った。巨大な大仏を見上げながら、美咲がぽつりと言った。 「ねえ、悠真くん。私、来年から留学するかもしれない」 「え……」 突然の言葉に、悠真は言葉を失った。
「まだ決まったわけじゃないけど、英語をもっと勉強したいの。夢があるから」 「夢?」 「通訳になりたいの。世界中の人をつなぐ仕事」 美咲の瞳は真剣だった。悠真は胸の奥に小さな痛みを覚えた。
「……すごいな」 「ありがとう。でも、ちょっと怖い」 「怖い?」 「うん。奈良を離れるのも、友達と離れるのも。……でも、挑戦したい」
悠真は何も言えなかった。ただ、冷たい風の中で、美咲の横顔を見つめていた。
その夜、悠真は眠れなかった。美咲の言葉が頭の中で繰り返される。留学、夢、挑戦。自分にはそんな強い意志があるだろうか。彼女の存在が、悠真の心を揺さぶっていた。
翌日、図書館で再び会ったとき、美咲はいつも通り笑顔だった。だが、その笑顔の奥に、決意の影が見えた。悠真は思わず言った。 「……もし留学しても、また会えるよな」 「もちろん。約束する」 その言葉に、悠真は少しだけ安心した。
冬の図書館で始まった二人の物語は、まだ序章にすぎなかった。 悠真の心には、初めて芽生えた感情が静かに広がっていた。