テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
■第5話「記録されない日」
「今日も全部、書き残しておかないと落ち着かなくてね」
杉本ハルはそう呟きながら、いつも通りメモ帳に目を落とした。
けれどその日、手帳に書きつけたはずの予定が、どのページにも存在していなかった。
気がつけば彼は、まったく知らない空間にいた。
書棚が静かに浮いている。重さを持たないはずの本が、床に落ちずに宙に漂っている。光源はないのに明るく、影だけが不自然に棚を伸ばしていた。
空気はどこか懐かしい香りがする。昔の紙とインクと、雨に濡れたコートの匂い。
「……夢か?」
ハルは、眉間にしわを寄せた。
スーツの上下はよく見ると微妙に左右非対称で、黒縁メガネの奥の瞳は、何かを見逃すまいとする焦点を保っている。四十代半ば、几帳面で、生徒からは“黒板みたいな人”と呼ばれている教師だ。
「記録魔ですね、あなたは」
声の主は、背後から現れたブックレイ。
その衣は、まるで“破られたノートの断片”を継ぎ合わせたような布でできていた。揺れるたび、かすかに紙の擦れる音が聞こえる。顔は相変わらず表情を持たないが、瞳は“過去の書き損じ”のような色合いだった。
「あなたに足りないのは、“記録できない日”です」
彼の手にあったのは、無地のノート。
「この物語では、どんなに書いても、何ひとつ記録に残りません。あなたはその中で、“今日という日”をどう使いますか?」
ハルは言葉を失った。
書き記せない日々。すべてが流れて消える世界。
だが、それは本当に“失われる”のか──それとも、“心にだけ残る”ということなのか。
ノートを受け取った指が震える。
ページが開かれた瞬間、周囲の影が文字となって舞い上がった。
それはまるで、記憶が逃げていくような、不思議な静けさだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!