テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
それはまるで、モゾモゾと蠢《うごめ》く壁だった。
夥しい数の線虫を、捏ねて捏ねて練り上げたような、醜悪な壁。
見ているだけで寒気のしそうな、生きた壁だった。
そんなものが、今まさに私の身に伸し掛かろうとしている。
“すぐ隣に───”
胡梅さんの言葉が、不意に脳裏を過った。
そもそも、私はなぜあれを“警告”と受け取ったのか、自分でも不思議だった。
妖怪は危険な存在じゃないと、きちんと説明を受けていたはずだ。
にも関わらず、なぜそんな二文字が、降って湧いたかのように浮かんだのか。
ひょっとすると、彼女たちの背後に潜む胡乱な影に、本能的に気付いていたのかも知れない。
刹那、雷光を思わせる疾さで突っ込んできた友人が、私の身柄を押し退けた。
同時に、ジャージの袖の内側から滑り落とした小刀を、手の内でくるりと器用に取り回した。
「………………っ」
あとの動きは見えなかった。
純粋に、人間の眼で追える速さじゃなかったのだと思う。
ただ、刃の軌跡だけは、妙に白々と、鮮明に視認できた。
とりわけ潤みを持つ日本刀の事なので、月光をその身に吸着させた結果かと思われる。
気味の悪い壁を真っ二つに両断した豪壮な刃は、勢い余ってすぐ側の道路標識をスッパリと斬って落とした。
「大丈夫ですか!?」
「え………、うん」
すぐさま私の身に飛びついた彼女は、身体のあちこちをペタペタとやって、変調がないか確認してくれた。
腰は抜けたけど、どこにも怪我は負ってないし、気分に目立った不調もない。
こちらにサッと駆け寄った琴親さんが、「御無礼」と短く言って、肩を貸してくれた。
その隣で、結桜ちゃんは何やら浮かない顔をしている。
理由については程なく語られたが、私には到底納得のできるものでは無かった。
「此方らさえ、ここに参らなければ、このような危険は無かったやも………。 面目次第もございません………」
「いや、なんで……? 謝らないでください。 そんなの……」
この場に居合わせたのは、私の意志に他ならないわけだ。 まかり間違っても、彼女が責任を感じる筋じゃない。
巻き込まれ体質ならまだ良いが、私の場合は自ら進んでいった先で、トラブルに見舞われることが屡々だった。
せっかく呪いから解放された彼女に、最後の最後で汚点というか、疵を残した気がして、穴があったら入りたいような気分だった。
「それにしても、さっきの………」
「人を呪わばってヤツだな……」
濡れタオルで私の顔をぐしぐしと拭いつつ、史さんがそのように応じた。
人を呪わば穴二つ。
呪いで縛られていたのは、なにも彼の一族だけでなく。 九尾譚に関わった人々、取り分け説話を創作した人物もまた、同じ憂き目に遭っていたのではないか。
言わば、表裏一体の呪いだ。
九尾狐の恐ろしさが世に浸透するたびに、作者もまた呪われる。
結桜ちゃんの身に纏わりついたものは、たしかに友人の手で祓われた。
しかし、その裏に潜んでいたもう一つの、作者側の呪いが、こうして浮き彫りになって現れたのではないかと。
「ごめんね………?」
「ふん……? ぁや、なにを謝っておいでか?」
人間というものは、まったくもって度し難い。
自分を棚に上げるつもりは無いが、この騒動の真の発端を思うと、そんな風に考えずには居られなかった。
空を見る。
二人の眼に、この夜空はどのように映っているのだろう。
星々を、太古の瞬きすらも霞ませる人里の明るさは、二人にとって、どのような。
ふと気をまわし、夜空をキョロキョロとやって、それの在処を探す。
少しでも、二人の気慰めになればと思ったのだけど、今日は生憎と、月は出ていなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!