私があの方を知ったのは、町に疫病が流行る一年前のこと。ある日の夜更け、父が経営する酒場にふらりとやってきたのです。
歳のころは三十前後といったところでしょうか。もしかしたら、実年齢はもっと上かもしれません。
あの方はシルクハットを被り、襟にビロードをあしらった上等なコートを着ていました。どの指にも黒ダイヤを光らせ、銀の柄のステッキを持つ紳士は明らかに場違いな身なりでした。
小さな田舎町でしたので、あの方のことは町人達の間でたちまちのうちに評判になりました。
父が聞き出したところによると、なんでも王宮のある都の公爵様だというではありませんか。夫人に先立たれ、淋しいやもめ暮らしだといいます。華やかな社交界も、公爵様の淋しさを紛らわすことは叶いませんでした。
静養のため都を離れ、旅の途中で偶然にも訪れたのがこの田舎町でした。最初は近くの宿に泊っておいででしたが、すぐに町外れにある廃墟同然の古い屋敷を買い取りました。
夜になると、父が営む店にふらりと現れます。父の作るシチューの味がずいぶんとお気に召したようで、ワインと一緒に食事をなさいますと金貨を一枚置いてゆくのです。
そして、不思議なことに、私は公爵様を一目視たときから、随分前から知っているような気がしてなりませんでした。 毎夜、公爵様は酒と料理を運ぶ私にむかってそっと囁きます。
「タマラ、美しいタマラよ。私の屋敷は、それはそれは見違えるように立派になったのだ。コレクションの美しい宝石や珍しい調度品をタマラにも見せてあげよう」
「公爵様、私のような無知な人間がそのような高価なものを拝見しても理解できません。せっかくの美しい宝石も、珍しい調度品もったいないことです」
恐れ多いと感じた私はすぐさまお断りするのでした。
翌日の晩は、エプロンのポケットに美しい花の絵が描かれた栞が押し込まれていました。
「タマラよ、私の絵は気に入ってもらえたかな? 屋敷に来てくれたなら、美しい君の姿を描いてあげられるのに」
「私のような粗末な身なりの人間が、公爵様の被写体など、不向きでございます」
「身なりなんか気にすることはない。タマラの清らかな真の姿は、今上の王妃よりも気高いと思うが」
公爵様の柔らかな微笑に、私は頬を赤らめました。
またある夜、父が留守にしていると知った公爵様はこんなことも言いました。
「私は独り淋しく眠れぬ夜を過ごしている。タマラよ、こんな時はどうしたらよいだろうか?」
「公爵様、寝る少し前に読書をなさったらよいかと存じます」
その数日後の夜に、父が鳥小屋に行くのを見計らうとこうも言いました。
「おかげで眠れるようになった。けれど、手持ちの本をすっかり読んでしまったのだが、タマラは何か良い本を知っているのかな?」
「公爵様はどのような本がお好みでしょうか?」
「私は男女がおりなす愛情深き物語を好む」「では、黒薔薇の乙女と騎士のお噺などはいかがでしょう?」
「黒薔薇の乙女とはーー。実に興味をそそる。どのような内容なのか話してみよ」
そこで私は黒薔薇の乙女の物語を話して訊かせました。
「魔物に追われ、傷を負った騎士が森の奥深くに迷い込みます。やがて黒薔薇の茂る一軒の館にたどり着きます。女主人の黒薔薇の乙女をひと目見て、騎士は恋に落ちるのでございます。乙女がなぜ見捨てられたような地にある、このような場所で暮らすようになったのか。互いの愛を確かめ合い、魔物との対決が見どころにございます」
「なるほど、実に興味深い物語だ。だが、この時間に本屋の主人を起こすわけにはいくまい」
「では、私の手持ちの本をお貸しいたしましょう?」
私が部屋から本をとってまいりますと、公爵様は受け取った本をすぐにテーブルにおいてしまわれました。それから、ご自分の両掌の中に、私の手を包み込みながらこう言いました。
「心優しいタマラよ、今宵、いっそうのこと、私の屋敷でこの物語を読んではもらえないだろうか?」
つややかな黒髪のあいだから宝石のサファイアのような瞳が覗いていました。あまりに見つめられるものですから、私の心臓は早鐘を打ちます。思わず吸い込まれそうになるくらいまで公爵様の顔が近づいてきて、耐えられなくなった私は顔をそむけてしまいました。
私の動悸が公爵様に聴こえてしまうのではないかしら。恥ずかしさから逃れたくて、私は公爵様の手の間から抜け出すと、心を落ち着かせながらこう言いました。
「卑しい身分の私などお招きなっていけません。それに、年頃の娘が公爵様のお屋敷に伺うことは、私の父が許しませんわ」
「タマラが卑しいなどと思ったことはないのだよ。だから自分を蔑むのはおやめなさい。だが、そなたの父上の心配は、もっともなことだ。気の短い私をどうか許しておくれ」
公爵様はテーブルに腰掛けるとワインをもう一本注文されました。それから、本のページをめくりながら、小さくつぶやかれたのを私は訊いてしまいました。
(私が探し求めていた娘をようやく見つけたのだ。だが、ここは急ぐまい。いずれ父親の方から願い出るはず……)
夜更け、公爵様が帰られたあと、帰ってきた父はこう言いました。
「娘よ、あの男はおまえを手籠めにしようとしている。金持ちなのはいいが、実に信用のならない男だ」
「まぁ、お父様。信用ならないだなんて、公爵様に失礼ではありませんか。それに、あのお方は、それは見事な絵を描いていらしてよ。私にお優しい言葉もかけてくださいましたわ。心が清らかでなければ、あのような言葉はおっしゃれないはずです」
「世間知らずな娘よ。美しい絵や耳当たりの良い言葉に騙されてはいけないよ。紳士的な態度の裏に、卑劣な男の下心を隠し持っているのだから。卑しい身分のおまえは、さんざんにもてあそばれ、捨てられてしまうに違いないのだからな」
けれど、そう思っていたのは父だけでした。町にいる年頃の娘たちはこぞって公爵に興味を抱いていました。
そして、町長の奥方様もそのうちの一人でした。町長夫人は娘のイザベラを公爵の継室に据えようと考えていました。
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