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──翌朝。
遥はいつもより少し早く教室に入った。誰もいないはずの空間に、ただ窓からの光が流れ込んでいる。
けれど、その「静けさ」が、以前とは違っていた。
机。椅子。ロッカー。掲示板。
目に入るもの全てが、“誰かの視線を通った後”のような、わずかなざらつきを持っていた。
その違和感の正体を言語化するまでもなく、遥はわかっていた。
──もう、ここは“居場所”じゃない。
机の中に紙はなかった。何も書かれていない。何も壊されていない。
けれど、それが一番怖かった。
“誰にも触れられない”というかたちで、存在が消され始めている。
「……これが、最後通告かよ」
誰にともなく吐き捨てて、遥は椅子に座る。
その手は、わずかに震えていた。怒りでも悲しみでもなく、自分への苛立ち。
「わかってたくせに」と、胸の奥で何かが蠢いている。
そのとき、教室のドアがゆっくり開いた。
入ってきたのは日下部だった。表情には、何も出ていない。けれど、目だけが真っ直ぐだった。
遥は顔を背けた。
「……もう来んなよ。見てんだろ、周り」
日下部は返事をしない。ただ、自分の席の隣──“わざと空けられた”席に鞄を置くと、そのまま座った。
「見てるなら、離れろよ。……“おまえのせいだ”って言われたいのかよ」
それでも、日下部は何も言わなかった。
遥の怒りが、少しずつ自分の内側に向かって折れ曲がっていく。
「……俺が壊してんだよ。おまえのことも、周りのことも。……触れんなよ。おまえまで巻き込むなって、何回言えば──」
「だから、来てる」
日下部が、初めて言葉を発した。
低く、静かに。だが、そこには確かな意志があった。
遥は固まる。
「巻き込むってわかってて、ここにいる」
「だったら俺の判断だろ」
遥の肩が、わずかに揺れる。
「……そうやって勝手に背負って、壊れて……それで、“俺のせいじゃない”って言いたいのかよ」
「壊れる前提で来てねぇよ」
日下部の声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、確かにそれは“覚悟”の声だった。遥の歪みごと、受け止めようとする人間の、沈黙の芯だった。
遥は、視線を机の端に落とす。
目の前の木目が、滲んで見えた。
けれど涙ではない。ただ、何かが決壊しかけていた。
そのとき、教室の外から、ひそひそとした声が聞こえた。
「マジで、あいつらまだ一緒にいんの?」
「逆に怖くない?そういう関係……」
遥は、もう耐えきれなくなって立ち上がろうとした。
だが、日下部が、無言でその手首を取った。
やさしく。だが、はっきりと──逃がさないという意志を持って。
遥はその手を振り払わなかった。
むしろ、振り払えなかった。
──放課後。
日下部の机に、“担任からの呼び出し”が書かれたメモが置かれていた。
そこには、「個別に話したいことがある」とだけ記されている。
しかし、日下部はそれをそのままゴミ箱に捨てた。
遥がそれを見ていた。
「……行かなくていいのかよ」
「行ったって何かが変わるなら、とっくに変わってる」
遥は何も言い返さなかった。
だが、その日。遥の中で、“何か”が音もなく崩れ始めていた。
日下部の踏み込み。
それは暴力でも情熱でもない、ただ「引かない」という行為だった。
遥にとって、それは“希望”と呼ぶには、あまりにも痛すぎる温度だった。