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第61話 笑いながら壊れる
炎に向けて、もう一度。
民に向けてか。処される者に向けてか。
縫季は立ち上がった。
(見た)
(これは――制度が書かせた帝辛だ。狂楽香と炮烙で塗り固めた、支配の記録)
この世界線の帝辛の終わり方を、もう十分に見た。
これ以上見続ければ、自分が壊れる。
縫季は胸の光に向けて、静かに言う。
「行こう」
帝辛の魂が、弱く、それでもはっきりと震えた。
縫季は、ゆっくりと背を向けた。
炎の熱が、背中を焼く。それでも、振り返らない。
振り返れば、足が止まる。足が止まれば、世界線が閉じる。
(……ごめん)
心の中でだけ、帝辛に謝る。
香の縫い目が開き始めた。
縫季は、そこへ足を踏み入れる。
視界が白に染まりかけた、そのときだった。
背後で、地を這うような声がした。
「……誰か……」
帝辛の声だった。
「誰か……代わりに、泣いてくれ……」
縫季の胸が、強く跳ねた。
振り返らない。振り返れない。
代わりに、胸の光が、ひときわ強く輝いた。
(泣くのは、俺でいい)
(お前は、最後くらい――笑って終われ)
縫季は、裂ける世界へ身を投じた。
香の縫い目が閉じる。熱も、炎も、悲鳴も、遠ざかる。
残るのは、胸の奥で震える小さな光と、帝辛のかすれた声の余韻だけ。
(……まだ行く)
(どこかに必ず、ある)
自然に笑って、終われる世界線。
胸の光が、微かに震えの形を変えた。
それは、恐怖だけではない震えだった。
どこか遠くで、呼ばれているような。
縫季は、ほとんど崩れかけた体を無理やり支え、次の世界へ沈んでいった。
◆
世界が、今度は静かに剥がれた。
縫季は、香の縫い目からこぼれ落ちるようにして、次の世界線へ落ちる。
落ちる途中で、自分の輪郭がさらに薄くなるのが分かった。骨の中身をごっそり抜かれていくような、妙な空虚感。
(……そろそろ、本当に限界だな)
胸の奥で、小さな光がかすかに脈打つ。帝辛の魂だ。
その鼓動だけが、体を癒す。
白が剥がれ、闇が形を持つ。
◆
足元は、土ではなく石でもなく、厚く敷かれた敷物だった。息を吸うと、湿った薬草の匂いと、わずかな鉄の匂いが混ざる。
薄暗い部屋。高い壁に小さな格子がひとつあるだけだ。そこから差し込む光も弱い。
(……閉じられた部屋、か)
縫季は、壁に手をついた。手のひらが震える。香を巡らせようとしても、うまく回らない。
胸の奥で光が震えた。
(いる……。ここにも、帝辛が)
視線を奥へ向ける。
部屋の中央に、低い卓。その向こう側に、帝辛が座っていた。
灯りは卓の上の一つの燭台だけ。炎が揺れるたび、帝辛の影も揺れた。
縫季は、ゆっくりと近づいた。
帝辛は、笑っていた。
低く、静かに。誰に向けるでもなく。
蠆盆の中身を眺めながら、満足したように口角を持ち上げている。
縫季の胸が、凍りついた。
(……笑っている)
笑っている。なのに――
胸の奥の光が、激しく震えた。拒絶だ。帝辛の魂が、この瞬間を全力で拒んでいる。
外側は笑っている。内側は、壊れている。
縫季の目が細まる。
部屋の隅。蓋の半分開いた小さな盆がある。
中身は見ない。見なくても分かった。
うごめく影。毒を持つものの匂い。そこに放り込まれた者の気配だけが、まだ薄く残っている。
帝辛の視線は、その盆に固定されていた。
見ている。見続けている。
笑いながら。
「…………」
帝辛は何かを呟いた。縫季が耳を澄ますと、かすかに言葉の形を取った。
「……これを、命じたのは……私だ」
指先が、卓の縁を強く掴んでいる。血が引くほどに。
口角は、まだ上がったままだ。
「私が……命じた」
笑っている。笑いながら、指先だけが白くなるほど卓を握りしめている。
縫季は、拳を握りしめた。
誰もいない部屋で。誰にも見せない場所で。
笑いながら、壊れている。
民の前でも笑い、ここでも笑う。だが胸の奥の魂は、それを全力で拒んでいた。
そんな世界線を、縫季はもういくつも見てきた。
胸の奥で、光が小さくうずくまるように震える。
帝辛の魂が、この光景を嫌悪している。「こんな自分を見たくない」と言っている。
縫季は一歩踏み出した。
その一歩で、視界がぐらりと傾いた。
(……くそ…)
膝が抜ける。床が近づく。
香で編まれた仮身は、緊急有限化の途中で無理に世界線を渡れば一気に崩れる。今の縫季の体は、ほとんど人間と変わらなかった。
胸が締め付けられる。呼吸が浅い。視界の端が暗くなる。
無様な話だ、と縫季は思った。
「帝辛……」
手を伸ばそうとした。帝辛へ。卓の向こうに座る、その肩へ。
指先が、空を掻いただけで止まる。
そこで、意識がふっと切れた。
コメント
1件
いやー、今回も重かった…。縫季が「ごめん」って心の中で謝りながら振り返らないシーン、胸がギュウッてなったよ。帝辛の魂が胸の奥で拒絶しながら震える描写と、「笑いながら壊れる」っていう状態の対比がすごく生々しくて。縫季の体も限界近いのに、それでも次へ進もうとする強さが泣ける。続きめっちゃ気になるわ🔥