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第62話 怪物になる前
どれくらい、時間が経ったか分からない。
縫季は、布擦れの音で目を覚ました。
頬に、冷たい布が当てられている。額にも、湿った感触。
香ではない。水だ。本物の水の冷たさだ。
「……気がついたか」
かすれた声がした。
縫季はゆっくりと目を開ける。
視界に最初に入ったのは、皺だらけの手だった。節くれ立った指が、慎重に布を絞っている。
その先にいるのは、歳を重ねた男だった。痩せて、背も丸く、髭もまばらで、粗末な衣服。
薬草の匂いが、男の全身に染みついている。
薬師だ。
縫季は、自分が寝かされている場所を確認した。あの部屋ではない。少し離れた、小さな薬房か倉庫のような場所だ。
背中には固い板の感触。即席の寝台だろう。
「……運んだのか、俺を」
縫季が問うと、男は短くうなずいた。
「廊下で倒れていた。宮の者は見て見ぬふりをして通り過ぎていったがな」
薬師は、鼻で笑う。
「仕方あるまい。今の宮で、倒れている者に手を伸ばすのは『賢い生き方』じゃない」
言いながらも、その手つきは丁寧だった。額から首筋へ、布を滑らせて熱を確かめる動作に、長年の癖が滲む。
縫季はゆっくりと上体を起こそうとして、すぐに諦めた。全身が重い。骨の一本一本に鉛が打ち込まれているような疲労。
(……世界線を渡りすぎた)
(ここまで削れる前に止めろって、管理官なら言うだろうな)
管理官の香波はもう届かない。制止の香縄も張られない。
薬師が、ふ、と細い笑いを零した。
「顔色が、戦場帰りの兵より悪いぞ。どこの誰だか知らんが、命を削る真似はやめとけ」
縫季は、苦笑いを飲み込んだ。
(命、か)
こっちは今まさに、その命を買ってる最中なんだが。
胸の奥で、光が弱く燻っている。帝辛の魂だ。
その温度だけが、縫季を繋ぎ止めている。
薬師は、ふと縫季の胸元を見た。そこから漏れる微かな香に、眉をひそめる。
「変わった香だな。狂楽香とも薬香とも違う」
「……昔、預かったものの残り香だ」
縫季は短く返した。
興味を逸らすように、別のことを問う。
「さっき……そこにいた方は」
薬師の目が、わずかに細くなった。
「『陛下』のことか」
縫季はうなずく。
薬師は少し黙った。黙って、湿った布を桶に戻し、新しい布を取り、また水に浸す。
布を絞る音が、静かな部屋に小さく響いた。
やがて、薬師はぽつりと言った。
「昔の陛下は、倒れている者をみると、真っ先に手を伸ばしてくれるお方だった」
縫季の指先が、わずかに動いた。
薬師は続ける。
「戦帰りの兵が、血塗れで床に崩れたときもな。他の誰より先に駆け寄って、軍医を呼び、自分の衣を裂いてまで止血した、そういう方だった」
声には、淡い懐かしさと、深い疲労が混じっていた。
縫季の胸の奥で、光が反応する。ふっと、揺れる。
(知っている)
(俺の知っている帝辛も、そういう男だった)
薬師は縫季の額に布を当てながら、天井のどこかを見ていた。
「病に伏せた子を抱き上げて、背をさすってやったこともある。『王というものは、民の息の数を感じていなければならない』と、笑っていた」
縫季の喉に、何かが引っかかる。
笑っていた。
そうだ。笑っていた。
茶を飲むときも。回廊でも。市場でも。
帝辛は、民の顔を見て、笑っていた。
「……今は?」
縫季が問うと、薬師は短く息を吐いた。
「あの男が来てからだ」
「あの男?」
「黒闢だ」
薬師の声色が、少しだけ冷たくなる。
「いつからか、王は黒闢の言葉を聞くようになった。宮の病人や兵よりも、黒闢が連れてくる『試しの素材』の身体を優先して見るようになった」
縫季の胃が、またひっくり返る。
蠆盆。炮烙。酒池肉林。
すべて、黒闢の影と共に増えていく。
薬師は続ける。
「陛下は……最初は拒んでいた。ああいう刑や毒虫の使い方など、『二度と宮に持ち込むな』と怒鳴っていたこともある」
「なのに、今は?」
「今は、笑いながらそれを眺めている」
薬師の目が細くなる。
「笑っているのに、手だけが震えている」
縫季は、まぶたを閉じた。
さっき見た帝辛の姿が、瞼の裏に浮かぶ。
蠆盆を眺めながら笑う帝辛。卓を白くなるほど握りしめる、その指先。
(……違う)
心のどこかが、はっきりと告げる。
この帝辛は、何かを折られている。かつての帝辛は、こんな笑い方をしなかった。
笑うときも、前を向いていた。誰かのために笑い、誰かに顔を向けて笑っていた。
今目の前にいるのは、誰の方も向いていない笑みだ。
縫季の胸の光が、低くうなるように震えた。
薬師が、その震えに気づかぬふりで言う。
「……昔の陛下を知る者は、口を閉ざす。黒闢の目があるからだ」
「お前は、口を閉ざさないのか」
縫季が問うと、薬師は笑った。自嘲にも似た、短い笑みだった。
「私はもう近いうちに死ぬ。黒闢にとっても、陛下にとっても、価値のない老いぼれだ」
だから、話せるのさ、と肩をすくめる。
「それにな……誰かに伝えておきたかったんだ」
コメント
1件
ああ〜もう、このエピソード…心臓ぎゅってなった😭💔 薬師のおじいちゃん、良すぎるでしょ…。見て見ぬふりされる中で倒れてる縫季を運んで看病して、しかも「誰かに伝えておきたかったんだ」って。老いて死を目前にしてなお、かつての帝辛の温かさを覚えてる人がいるって切なすぎる…。 「笑っているのに、手だけが震えている」帝辛の描写、グサッときた…。折られてるんだなって。縫季が胸の奥で感じてる光との対比がもう、エモすぎて言葉にならないよ…🥺✨