「ちょっ、待て、親父っ! 誰が心の準備が出来とらんっちゅーた!」
さすがの実篤も、そう突っ込まずにはいられなかった。だってそうでもしないと、何だか〝男の沽券〟に関わるではないか。
***
「もぉ、連史郎さん、最高じゃないですかっ」
両親との電話のことが――というより主に父からの暴言?が――忘れられくて、 翌日クリノ不動産横の駐車場へパンの配達に来てくれたくるみのそばまでツツツツツ……と近付いてぼそりと愚痴ったら、目尻に涙を浮かべられて笑われてしまった。
父・連史郎を褒められるのが何となく面白くない実篤は、「くるみちゃんっ、笑いごとじゃないけぇ」とムスッとする。
ぼそぼそと、小声で互いのすぐ真横。
パンを選んでいる客たちには聞こえないぐらいの微かな声音で話している二人だ。
必然的に距離がグッと縮まって、止まり木に寄り添う小鳥みたいにくっつき合っている。
「きな粉フレークパンと、クリームパン、それから抹茶シフォンを一つずつ」
客が、棚に並ぶビニール袋で個包装された手こねパンそばに取り付けられた札を指さしながら注文するのに対応して、くるみが一つずつパンを棚から取り上げては平べったいカゴによけていく。
「これでお間違えないですか?」
くるみが客に確認を取った後のパンを、会計作業をしている彼女のそば。
実篤は『くるみの木』と言うロゴスタンプが捺されたマチ付きの茶色い紙袋へつぶさないよう丁寧に入れていきながら、笑顔で接客をするくるみの横顔を眺める。
最近ではくるみが駐車場へ来ている間は、こんな風に使い捨てのビニール手袋をして手伝っていたりする実篤だ。
最初のうちこそ「悪いです」とオロオロしていたくるみだったけれど、最近はこうやって二人で並んで作業するのを案外気に入ってくれたように見受けられる。
妻が夫を助けるのを「内助の功」とか「鶏鳴の助」とか言うらしいが、夫が妻を支えるのは何というのだろう。
そんなどうでもいいことを考えながらも、くるみの手伝いをするこの時間が嫌いじゃない実篤だ。
そもそも、元々実篤の本業は不動産屋。
接客ありきの仕事なのだから人と接するのはそんなに苦ではない。
ただ、自分が余り前に出ると客を怖がらせてしまうかもしれないので、あくまでも裏方。
くるみのサポートに徹することを心掛けている。
一旦客がはけたところでくるみがすぐ横に立つ実篤を振り仰いで、思い出したようにくすくす笑うから、 実篤は「くるみちゃん、笑いすぎ……」とつぶやいて小さく吐息を落とした。
くるみはそんな実篤の腕にそっと触れて「ごめんなさい」と謝ってはみたものの、やはりこらえきれないみたいに慌ててそっぽを向いて肩を震わせる。
その左手薬指にきらりと光る指輪を見て、実篤は切り出すなら今しかないと思ったのだ。
「ねぇ、くるみ。そんだけ笑ったんじゃけ、俺がヘタレじゃないって証明するんにも、もちろん協力してくれるいね?」
身体を屈めるようにしてくるみの耳元でわざと彼女を呼び捨てにして声を低めれば、くるみが真っ赤になって耳を押さえた。
その様が可愛くてふっと笑うと、実篤は満足して続ける。
「仕事が落ち着いたらさ、なるべく早めに親への報告がてら挨拶とか済ませたいんじゃけど……どうじゃろ?」
実篤の提案にくるみが照れ臭そうにコクッとうなずくのと、「あのぉー、辛子高菜パンとカボチャあんぱんを一つずつお願いします」と注文が入るのとがほぼ同時で。
くるみが気持ちを切り替えるみたいに元気よく「はーい」と答えて、この話は一旦終了になった。
***
市内のあちこちでちらほらと咲き始めた桜が満開を迎えたころ、やっと実篤の仕事が落ち着いた。
それでくるみと相談して二人の仕事が定休日となる水曜日に、広島に住む実篤の両親へ婚約の報告を済ませに行ったの だが――。
***
「それで二人とも結婚したらどこへ住むつもりなんか?」
応接間のはずなのに書斎みたいな様相を呈する本だらけの洋間で、 何気ない感じ。父・連史郎にそう尋ねられた二人はグッと言葉に詰まったのだ。
それは、実篤自身ずっと考えていた事でもあったからだ。
贅沢な悩みかも知れないけれど、実篤もくるみも両親から引き継ぐ形で一軒家を所有している。
どちらも旧岩国市内と呼ばれる街の中心部からは少し離れた、いわゆる市町村合併で岩国市に組み込まれた地域。
実篤の家がある由宇町も、くるみの住まいがある御庄も、かつては玖珂郡と呼ばれる地域に位置していた。
今は広島県との県境にある和木町を残すのみとなった玖珂郡だが、かつては結構広範囲をカバーしていたのだ。
今はどちらも岩国市由宇町、岩国市御庄と住所表記されるようになったけれど、実篤が不動産屋を営んでいる商店街のある麻里布町や、そのすぐ近くに位置する市役所庁舎のある今津町辺りを市の中心部と考えるなら、由宇も御庄も外れにあるイメージ。
「俺はくるみちゃんと住めるんじゃったらどこでもええと思うちょる」
両親や弟妹には家を守れなくてすまないという思いは無きにしも非ずだけれど、例え実家を捨てることになったとしてもくるみに寄り添いたいと思っている実篤だ。
くるみにはまだ話していなかったけれど、家でパンを焼いている彼女と違って、自分は家でどうこうする仕事ではない。
ならばくるみの実家に自分が移り住む形が一番スマートなのではないかとずっと思っていた。
もしくは――。
「なぁ実篤よ。お前、不動産屋の経営者らしく中心部の方へ良い物件見つけて新たに居を構えようとは思わんのか?」
連史郎に言われるまでもなく、実篤だってそれも考えなかったわけではない。
だが――。
「しても……ええんか?」
実家を置き去りにして、くるみの家へ住まうことになるかも知れないと言う構想に関してでさえ、実篤は家族に対して跡取り息子としての後ろめたさが拭えないのだ。
ましてやそれを新たに不動産を取得する形で新居を建ててもいいものだろうか?という思いがずっとあった。
「……ええも何も。それが一番効率がえかろうが」
「そうよ実篤。あんたのことじゃけ、どうせ要らんことアレコレ考えて踏ん切り付けれんかったんじゃろうけど……お父さんもお母さんもあんたとくるみちゃんが暮らしやすいんが一番ええと思うちょるんじゃけぇね? あんな古い家のことは気にせんと好きなようにしなさい」
連史郎を補佐するように、ずっと黙っていた母・鈴子がにっこり笑う。
「父さんも母さんもあの家は本の保管庫にでもすりゃあええと思うちょるしの」
我が子らに文豪たちの名を付けるくらいの両親だ。
二人の馴れ初めにしても本が密接にかかわっている。
この家に来た時にも思ったけれど、前遊びに来た時より格段に本の数が増えていて……正直奥の間はヤバイ状態になっていた。
かつては応接間にだって、本棚なんてなかったはずだ。
「じゃけどな――」
父親の背後の本棚を見るとはなしに眺めていたら、連史郎がくるみにちらりと視線を移して、 その声に気持ちを引き戻された実篤だ。
「くるみちゃんがお父さん、お母さんから引き継いだ家を守りたいっちゅう気持ちが大きいんじゃとしたら、男としてそれも汲んじゃげんといけんぞ?」
連史郎の言葉に、実篤のすぐ横でくるみが瞳を見開いたのが分かった。
「連史郎さん……」
うるっとした目で連史郎を見詰めるくるみの様子に、実篤の心は決まった。
「俺、くるみちゃん家に住むわ。とりあえず土地も家も買わん」
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