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月咲やまな
#赤ずきん
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扉の外の陽は傾き、酒場の中だけが薄暗い光に沈んでいた。
ダリウスたちが去ったあと、オットーは独り、黙々と酒を煽り続けていた。
カウンターに置かれた酒瓶はすでに半分を切っている。
指がかすかに震え、掌に汗がにじんだ。瓶がずるりと滑りかけ、慌てて握り直す。ガラスが冷たい。
そこへ、酔いで赤くなった中年男がふらふらと近寄ってきた。
「……ちょっといいかい?」
目は濁っている。それでも口元だけが、言いかけて止まる形をしていた。
オットーは俯いたまま返す。
「あぁ」
中年男は一度唇を湿らせるように息を吸い、喉を鳴らした。
肩が小さく上がり、下がる。覚悟の呼吸だった。
「……俺も、冒険者やってたんだ」
その一言で、オットーは顔を上げる。
酒に曇った目が、そこだけ鋭くなる。
「本当か!? どこのギルドだ!?」
中年男は頬を一瞬だけ持ち上げ、すぐ目線を杯の底へ落とした。笑いの形なのに、乾いている。
「……オルテガだ」
オットーは少し考え、腕を組み、左上を見やった。
「オルテガ……すまん、聞いたことがないな」
「そりゃそうさ」
中年男は乾いた笑いを漏らした。喉が鳴るだけで、顔が動かない。
「あんたらと違って、こっちは弱小ギルド。
その日の飯を食うのがやっと……そんな毎日だった」
オットーは相手を見てうなずく。
返事は短いが、目だけは外さなかった。
「そうか……苦労したな」
「あぁ」
中年男の声が少しだけ強くなる。酔いとは別の熱が戻っていた。
「腐りかけてた。
才能もねぇし、金もねぇし、仲間も死んじまって……
そんなときだ」
彼はカウンターを軽く指で叩き、言葉の順番を整えるように続ける。
「俺と同じ歳で……未踏破ダンジョンを制覇した男がいた」
オットーの視線が下へ落ちる。
杯の縁に指先が触れたまま、動かない。
「……」
「胸が躍ったよ」
中年男の声は、いつのまにか力を取り戻していた。
「その後も、そいつはいくつも偉業を成し遂げて……
腐りかけてた俺に、勇気をくれた。
生きてりゃ、まだやれるって……教えてくれた」
オットーは唇を固く結び、震える指で杯を握りしめる。
握る力が増えて、白くなる。
「……」
中年男の声は誇らしげだった。目が少しだけ澄む。
「巨人の城壁と言われたその男は……
誰が何と言おうと、今でも俺の中の英雄だ」
オットーはゆっくり目を閉じた。
奥歯が鳴り、顎の筋肉が硬く盛り上がる。息が鼻で詰まった。
「……」
中年男は銀貨を一枚カウンターへ置き、深く頭を下げた。
「じゃあな。ここは奢らせてくれ——巨人の城壁」
足取りはふらついている。だが背筋だけは伸びていた。
扉が閉じ、酒場はまた静かになった。
オットーは震える手で杯を取り、一口だけ酒を飲んだ。
そして、誰に聞かせるでもなく呟く。
「……俺はもう……そんなんじゃねぇんだ……」
声は小さい。だが喉の奥が震えていた。
酒のせいだけじゃない。悲しみだけでもない。何かが残っていて、そこに触れた揺れだった。
扉の閉まる音が、遅れて胸に落ちた。
*
オットーはふらつきながら荒野の町の大通りを歩いた。
酒を飲む気はもう起きない。代わりに、頭の奥で言葉が反響している。
「巨人の城壁と言われたその男は、今でも俺の中の英雄だ」
足が止まりかけ、また出る。
オットーは口の端で苦笑し、空を見上げた。夕陽が低く沈みかけ、街路の凹凸を赤く照らしている。
その時だった。
ガチン。
前を走っていた馬車の車輪が小石を弾いた。石は放物線を描き、別の馬車の馬の尻に当たる。
「ヒヒィンッ!!」
馬が悲鳴を上げ、暴れ出した。手綱を引く御者の叫びもむなしく、車体が横に滑る。
暴れ馬が、すぐ隣の馬車に衝突した。
「ちょ、やめろっ!」
「ひぃっ!」
混乱が広がる。三台の馬車が一斉に暴走を始めた。金属が擦れ、木が軋み、土煙が上がる。
その先。
路地の先の広場で、子どもたちが十人ほど遊んでいた。追いかけっこの笑い声が、轟音に潰される。
オットーの心臓が跳ねた。
次の瞬間、身体が先に動く。
「なっ——!?」
気づけば馬車の正面へ走り出していた。
地面を蹴るたび、酒で鈍っていた脚が軋む。吸う息が途中でつかえ、視界が揺れた。それでも足が止まらない。
風が耳を叩き、土煙が目に入る。三台の馬車が迫る。御者の悲鳴、子どもたちの泣き声が混ざる。
ふいに、昔の顔が浮かぶ。
オットーは首を振り、噛みしめたまま前を見た。
両足を踏み締め、腰を落とす。
巨体がどっしりと沈み、踵が土に食い込んだ。
「シールドは身体の技……!」
声は低い。だが言い切った。
手は空だ。盾はない。
それでも両腕が前に出る。皮膚が粟立ち、筋肉が硬く盛り上がった。砂が巻き上がる。
「——シールド・バッシュ!!!」
轟音。
オットーの両腕の前に、光の壁が展開した。
形は単純だ。だが揺れない。
一台目が突っ込み、轟く音を立てて弾き飛ばされた。
二台目、三台目も壁にぶつかり、次々に止まる。子どもたちはその背後で、目を丸くして立ち尽くしていた。
光が薄れ、ゆっくり消える。
掌が痺れ、膝が土に沈んだ。
荒い息。笑おうとして頬がつり、結局「はっ」と息だけが漏れた。
「……盾は、まだ……割れちゃいねぇ……」
空が暗くなる。紫が濃くなる。
子どもたちの泣き声が、遅れて笑い声に変わっていく。
*
《シールドバッシュ》。
盾職が最初に覚える基本の技だ。
敵の攻撃を受け流し、体勢を崩し、味方を守る。初歩の防御術。
範囲を広げれば薄く、範囲を狭めれば分厚くなる。
多くの者は数日で形だけ覚え、次へ進む。
だが、オットーは違った。
誰よりも頑固に、その技だけを鍛え続けた。
理由は言えない。説明できる根拠もない。
ただ、繰り返した。
仲間たちは笑った。
「あいつはおかしい」「セオリーじゃない」「盾職は多様性が命だ」
言葉を浴びても、オットーは返さない。毎日、同じ構え、同じ衝撃、同じ反動を体に刻んだ。
五年が経った。
盾を構えるだけで、周囲の空気が揺れるようになった。
押し返す衝撃は重い。足元が沈むほどに。
距離を置く者が増えた。笑いは薄れ、目線に別のものが混ざる。
恐れと侮りだ。
十年が経った。
オットーの《シールドバッシュ》は、技の枠を越えていた。
一人で数十人を守る壁になる。火炎も雷撃も、触れる前に弾かれる。
誰かが言った。
「……あれはもう人間の盾じゃない。城壁だ」
呼び名が生まれる。
「巨人の城壁」
*
「大丈夫か!?」
オットーは膝をつきながら声を張り上げた。耳鳴りで自分の声が遠い。
腕が痺れ、腰が鈍く痛む。それでも立ち上がった。
子どもたちがゆっくり顔を上げる。
瞳の硬さがほどけ、表情が少しずつ変わる。
「すごい!」
「かっこいい!」
「ほんとに止まった!」
「壁みたい!」
「おじさん強い!」
「助かった!」
細い声が重なっていく。
その中の一人が呟いた。
「巨人の城壁だ!」
オットーの背中に熱が走る。呼吸の入れ方を、体が思い出した。
自分の手を見下ろす。皮膚は赤く腫れ、まだ震えている。腰も痛い。息も荒い。
それでも、指先に血が戻ってきた。拳が作れた。
口元が勝手に緩む。歯の間から息が漏れる。
「……まったく、年甲斐もねぇな」
夕陽が背を照らし、影が伸びる。子どもたちはまだ見上げていた。
その視線に押されるように、喉が鳴る。言葉の前に一拍だけ止まった。
オットーは唾を飲み込み、踵を返した。
空の端が赤い。風は冷たい。
汗が背中を伝い、服が肌に貼りついている。
三段腹を揺らし、髪を乱し、肩で息をしながら走る。
足首がじくじく痛む。それでも止めない。
「まだ……間に合うか!?
街道を出たところか……!?」
声が荒い。息が先に漏れ、言葉が遅れて追いかける。
酒の乱れじゃない。焦りの乱れだ。
「待ってくれ! ダリウス!!」
遠くにランプの灯りが見えた。ぼやける。目をこすり、また走る。
「待ってくれ!!」
その瞬間、小石に足を取られる。
ドサッ。
「ぐっ……!」
膝をつき、手のひらが土をえぐる。
足首に激痛が走った。痛風の痛みが噛みつき、息が止まる。
オットーは歯を食いしばった。
顔を上げ、土だらけのまま前を見る。
這う。腕で体を押し出す。
泥の冷たさが掌に残り、地面の匂いが鼻に入る。
言葉にならない息が漏れる。
それでも、進む。
しばらくして、オットーは立ち上がった。
痛みのある足を引きずり、片足で踏ん張る。体が傾きそうになっても戻す。
声を張った。
「ダリウス!! エドガー!!」
振り返った三人の目が見開かれる。
「オットー……」
ダリウスの声に、驚きと微かな熱が混ざった。
オットーは肩で息をしながら、まっすぐ言う。
「……酒がないと……手が震える……
それでも、いいか?」
ダリウスは一拍置き、力強く頷いた。
「——生きて帰るなら」
その返事で、オットーの喉が落ちた。声が通る。
「あと……腹も出てる……痛風も、腰痛も……ある」
エドガーはやれやれと首を振る。
「まずは生活習慣を見直しましょう……」
オットーは泥だらけの顔で笑い、叫んだ。
「俺も! 俺も行ってもいいか!!」
ミラは両手をぱっと広げ、声を一段高くした。
「もちろんだよ! バリアのおじさま!!」
夕陽が沈むぎりぎりの空。
四人の影が街道に並び、老齢の塔へ向かって伸びていく。
中年三人と少女一人の、新しい旅路の始まりだった。
ただこのときのオットーとエドガーは、まだ知らない。
道中でミラのたった一言が、自分たちのプライドを粉々に砕きにくることを。