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その日の空は、不気味なほどに高く、抜けるような青さだった。
管理人の湊が庭のベンチでスケッチブックを広げていると、
門のチャイムが激しく鳴らされた。現れたのは、二十代半ばと思われる、
ひどく場違いなほど高級なスーツを着た青年だった。
彼の名は、陽介(ようすけ)。
陽介は肩で息をしながら、空色のポストの前に立つなり、
右手に握りしめていた銀色の腕時計を地面に叩きつけようとした。
「……っ、ふざけんなよ!」
その叫びに、湊は反射的に立ち上がり、陽介の手首をそっと、しかし力強く掴んだ。
陽介は血走った目で湊を睨みつけたが、湊の穏やかな眼差しに毒気を抜かれたのか、力なくその場に崩れ落ちた。
「……なあ、あんた。ここに入れれば、死んだ奴に届くって本当か?」
湊は静かに頷き、メモ帳を差し出した。
『想いが強ければ、必ず。その時計は、大切な方のものですか?』
陽介は自嘲気味に笑った。
「大切? まさか。これは親父の形見だよ。仕事ばかりで家に帰らず、母さんを泣かせて……僕の卒業式も、就職が決まった日も、あいつは一度も現れなかった。和解する時間なんてなかったし、する気もなかった。なのに、一ヶ月前に勝手に死にやがったんだ」
陽介が差し出した腕時計は、高級ブランドのものではなく、どこにでもあるような古びた国産の時計だった。
ベルトはボロボロに擦り切れ、針は数年前から止まっているように見える。
「親父の遺品整理をしていたら、机の奥からこれが出てきたんだ。壊れた安物。僕にこれを持ってろってことか? 嫌がらせだろ、こんなの」
湊はその時計を預かり、手のひらの上で転がした。長年使い込まれた金属の冷たさの中に、かすかな手の温もりが残っているような気がした。
湊は、時計の裏蓋に刻まれた、肉眼では見落としてしまいそうなほど小さな傷を見つけた。
それは傷ではなく、針の先で刻まれた文字だった。
湊はそれを指差し、陽介に手渡した。
陽介が目を凝らす。そこには、歪な文字でこう刻まれていた。
『陽介、おめでとう。共に歩めず、すまない』
「……え?」
陽介の時が、止まった。
その日付は、陽介が大学を卒業した日のものだった。
仕事人間だった父が、慣れない手つきで、息子への謝罪と祝福をその時計に刻んでいたのだ。
渡す勇気がなかったのか、それとも渡す前に病が彼を蝕んだのか。
「なんだよ……これ。言ってくれなきゃ、わからないじゃないか」
陽介の目から、大粒の涙が溢れ出した。
エリートを気取ったスーツの肩が、子供のように激しく震える。
彼はその場に座り込み、用意していた便箋を広げた。
震える手で、父への罵倒ではなく、ただ一言を書き記す。
『親父、ごめん。……ありがとう』
陽介がその手紙と時計をポストに投函した瞬間、風が吹いた。
カタン、という音と共に、陽介の止まっていた時間が、ゆっくりと、しかし確かに動き出した。