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本音を言うと、すぐさま携帯画面を見て、電波状況を確認してしまいたい。
でも、今ここでそれをして通信が不安定だという雰囲気を醸し出したりしたら、鬼塚に隙を与えてしまうかも知れないと思って。
鏡花は、その衝動をグッと我慢した。
恐らくは「鏡花、大丈夫なんか?」と問いかけているであろう兄に「問題ないけん、ちょっと落ち着きんちゃい」とハキハキ応えながら、やっと口を開いたエレベーターに乗り込んだ。
箱に入って扉を閉ざすなり、兄との通話が切れてしまい。
「閉」ボタンと階数表示の「1」を流れるように押しながら、小さく「あ」とつぶやいた鏡花だ。
扉が閉まり切って、身体を預けたエレベーターが下降を始めたのを体感するなり、鏡花は緊張の糸がプツッと切れて個室内の壁に半ば倒れるみたいにもたれ掛かる。
(あ〜。実家に帰ってきて美味しいもんいっぱい食べて養った英気、今ので使い果たした気分じゃわぁ〜)
などと思いつつ、小さく吐息を落としながらスマートフォンの画面を見たら、圏外と微弱電波の間を行ったり来たり。
(エレベーターん中って電波悪いんじゃー)
通話しながらエレベーターに乗ったこと自体なかったので知らなかったが、心配性の兄のことだからきっと携帯を片手にソワソワしているに違いない。
その様子が手に取るように目に浮かんで、鏡花は一人クスッと笑ってしまった。
一階についてエレベーターを降りるなり、「鏡花!」と兄の声が聞こえてきて。
くるみと手を繋いでこちらに向かってくる実篤の姿が目に入った。
「すまんっ、鏡花! エレベーターに乗った途端電波が悪ぅなって切れてしまった」
眉根を寄せて申し訳なさそうに頭を下げる兄を敢えて無視して、心の中で『いや、私もエレベーター乗ったしお互い様よ』と返しながら、実際には兄を通り越して彼の背後のくるみに話し掛けた鏡花だ。
背後で兄が「あ、おい!」とか言っているけれどいつものこと。まぁ、すぐに静かになるだろう。
「くるみちゃぁ〜ん、大丈夫じゃった? 何もされちょらん? こんなんじゃったら取ったモンなんか放置して一緒にトイレ行けば良かったね」
実際、人の取り皿なんて誰も興味なんて持たなかっただろうし、置いて行ったからと言って、どうこうはなかったはずだ。
「うちはたまたま通りかかった実篤さんが助けてくれたけん大丈夫。鏡花ちゃんこそ平気? 怖い目に遭うたりせんかった?」
「うん、私は大丈夫。こう見えて割と百戦錬磨じゃけ、何とかなったよ」
都会での一人暮らし歴も数年ともなると、変な男に絡まれたことだって一度や二度ではない。
そのたびに何とか一人で切り抜けてきた鏡花だ。
今回は逆に長兄が近くにいてくれただけ心強かった。
などということは当然おくびにも出さず、くるみと二人、お互い無事でよかったね、と確認し合ってやっと。
「お兄ちゃん、たまには役に立つじゃん」
鏡花はツンとした態度で実篤を労った。
「お前、もっと他に言いよう……っ!」
当然というべきか。
鏡花の塩対応に実篤が不満たらたらでブーブー言っているけれど、だからと言って本気で怒っているわけではないのは、雰囲気からしっかり伝わってくる。
(ホンマうちのお兄ちゃんは人が良えんじゃけ)
さっきまで、貼り付けたようなニコニコ笑顔のくせに、隠し切れない底意地の悪さを感じさせられる鬼塚と一緒にいたから余計。
実篤の裏表のない温かさにホッとした鏡花だ。
(ま、図にのるけん、絶対面と向かっては言うちゃらんけどね)
*
「それにしてもくるみちゃんの元カレ。ホンマ何考えちょったんかね」
兄の不平不満をかわそうと、何の気なしに鏡花が言ったら、くるみがにわかに顔を曇らせる。
「ごめんね、鏡花ちゃん。うちがちゃんとしとらんかったけ、鏡花ちゃんまで巻き込んでしもぉーて」
しゅんとするくるみに、鏡花は慌てて言葉を継ぎ足した。
「あの男と何があったんかは知らんけど……怖いことされた側が悪いなんてことは絶対にないけん。そんな顔せんの!」
「そうよ。あんな男のためにくるみちゃんが暗ぉなったり罪悪感みたいなん感じる必要、微塵もないけぇ」
鏡花の言葉に実篤がすぐに被せてきて、言葉だけでは足りないみたいにくるみをギュッと抱きしめた。
その瞬間、くるみの表情がホッとしたように和らいだのを見逃さなかった鏡花だ。
いつもなら、長兄が目の前でそんなことをしようものなら即座に「気持ち悪い」と批難する鏡花だけど、今回だけは友人の反応に免じて大目に見ることにした。
***
「何にしても、よ!」
自分とくるみを横目に見つつ。
「アイツ、自信満々にいい男ぶりをアピールしてきちょったけどさぁ。言うちゃあ何じゃけど八雲兄の方が数倍良い男じゃん? そんじょそこらの男じゃみんな芋に見えるっちゅーの! 八雲兄で肥えた私の審美眼を舐めるなってね♪」
荒々しい吐息で言葉を続ける鏡花に、
(いや、待て鏡花! 何でそこで八雲なんよ! お前を助けたんは俺なん、忘れちょらんか⁉︎)
と思った実篤だったけれど、その言葉はグッと喉の奥に飲み込んだ。
それよりも伝えなくてはいけないことがある。
「なぁ鏡花。悪いんじゃけど今日はタクシーで帰ってくれん?」
財布から万札を取り出しながら何気ない風を装って言ったら、「まぁっ。この男は可愛い妹を放っぽって恋人と何する気かしらね? いやらしいっ!」とわざとらしく言われてしまった。
「きょ、鏡花ちゃんっ」
その言葉にくるみが真っ赤になるのを見て、「くるみちゃん。嫌じゃったら蹴っ飛ばしてもぶん殴ってもええんじゃけぇね? うちのお兄ちゃん、打たれ強いけん少々大丈夫よ」と鏡花がクスクス笑う。
もちろん、下心がないと言えば嘘になる。けれど、そこはスルーしてくれぇーと思った実篤だ。
「うっせぇーわ」
吐息混じりに鏡花を睨んだら、いきなり胸ぐらを掴まれ、グイッと顔を引き寄せられて、すぐ耳元。
「くるみちゃんの事、しっかりケアしてあげんさいよ⁉︎」
と耳打ちされた。
鬼塚のことを話した時のくるみの様子がおかしかったから、鏡花も思うところがあったんだろう。
思いのほか自分のことを信頼してくれているような口ぶりに、実篤はジーンときて。
「鏡花っ」
思わず可愛い妹をギュッと抱きしめようとしたら、サッとかわされてしまった。
「気持ち悪いことせんで!」
鏡花はそのまま、実篤が手にしていた万札をスッと奪うと「お釣りはお小遣いでええんよね?」と言ってくる。
元よりそのつもりだった実篤は、だけど悔しさから吐息まじり。
「いけんっちゅうても返す気なかろうが」
と呆れた素振りをして見せる。
「よぉ分かっちょるじゃん」
クスクス笑う鏡花が、くるみとは違う意味で小悪魔に見えた実篤だ。
ホテルの外には、わざわざ呼びつけなくてもタクシーが常時数台待機していて。
実篤はくるみと二人、鏡花がタクシーに乗り込んで、無事走り去って行くのを見えなくなるまで見送った。