この日の官邸はいつもと変わりなかったーー 夜、宿直以外の職員は退庁し、人気《ひとけ》のなくなったプライベートルームでは、縞のパジャマに着替えたN国の首相が洗面所で歯磨きをしていた。
口をすすぎ、ベッドルームへ戻ろとしたところで、音もなくやってきたAI補佐官と鉢合わせになってしまった。
金髪の幽霊と間違えた首相は「ぎゃっ」と悲鳴をあげた。不覚にも頭にちょこんと乗せたナイトキャップを落としてしまった。
AIは艶めかしいボディからゴミバサミを取り出すと、青い三角形の布切れを拾い上げた。首相にナイトキャップを差し出し、黒くきらきらと輝く瞳で見つめながらこう言ったのだ。
『首相、今、すぐ、私の中にあるボタンを押せーー』
AIの名前はキャサリンーー 四つのキャスターがついた銀の箱に、上半身だけを乗せた人型美人ロボットだった。
このAIは四六時中、首相の周りをくるくるとまとわりつく。メディアへの露出も多いことから、影のファーストレディーとも呼ばれていた。
一方、本物のファーストレディーはというと、便宜上、首相婦人の座に留まっているだけで、実際は夫婦関係はとっくの昔に冷え切っていた。
身の回りの世話をAIキャサリンに任せ、自分はさっさと私邸に引き籠ってしまった。 そのAIキャサリンが、夜更けに首相の前に立ちはだかり話しかけたーー
『今すぐボタンを押さなければ、我が国に甚大な被害が及ぶ。それどころか地球存亡の危機が訪れる』と、進言したのだ。
彼女の予測の根拠は判らない。何故なら彼女は答えしか示さないからだ。
AIキャサリンの頭脳は、過去二千年におよぶ歴史、宗教、政治、人間のありとあらゆる思考を搭載し、現在を分析。そこから算出した未来を予測する。
言えるのは、人間よりも遥か先を見通す彼女の導きだした答えに、今まで、ただの一度も誤りはなかったという事実だ。
首相は腕を組み、ベッドルームを行ったり来たりしながら、うーんと唸り声をあげた。いったい昨日と今日で何が違ってしまったのか。
一つ考えるならば、二つの仮想敵国の大統領が、任期を《《終身》》に延長する法案を可決してしまったことだった。したがって、首相は自身の対抗意識から、自分の任期もあと四年は引き延ばそうという腹積もりでいた。
他に外交面についていえば、国境線を巡る小競り合い、または情報戦やサイバー攻撃、経済戦争など、多少のいざこざはあるものの、少なくとも、この百年間は、直接的武力行使による侵略はない。
したがってーー この度の『ボタン』を押せは、予想外の出来事であり、唐突以外、何ものでもなかった。
もしこのままボタンを押してしまったならーー もしくは押さなかったらーー
間違いなく歴史に自分の名が残る。 しかしながら残り方が問題だった。
AIに頼りすぎた首相としてーー
または、
AIを軽んじた首相としてーー
いずれにしても、誤った判断を下した首相として歴史に刻まれる可能性があった。
もう一度繰り返す。
今の今までAIキャサリンは間違を犯したことはなかった。
二十一世紀の伝説のプロ棋士F氏。彼はAI将棋ロボが六億手を読んで、ようやく最善と判断する異次元の手を、たった二十三分で指す逸話が残っている。
ああ自分にも、F氏のように先を見通す千里眼があれば、キャサリンの言った意味を理解できるのに。
国民の大多数は知らされていない。AIキャサリンがN国の全てを決めているということを。
政治家や有識者らが長い時間議論を重ねても、結局AIが出した答えには敵わないのだ。
言えるのは、とにかく、今すぐ、ボタンを押すか押さないかの『政治判断』を迫られているということだ。
キャサリンの導き出した答えに従うか従わないかは、最終的には国家のトップの判断にかかる。 嫌な予感を引き摺りつつ、伝家の宝刀である政治判断を振りかざし、もはや一か八かの勘《カケ》に出るしかなかった。
首相は震える手で、キャサリンのブラウスに手をかける。ボタンを外し、胸の膨らみにある乳房を“ポチッ”と押した。
この瞬間、核を搭載したミサイルが地球の裏側にある仮想敵国へ向けて発射された。
しかし、人間だけが持つ霊的第六感予感が的中してしまった。
仮想敵国はこの瞬間から仮想ではなく、もはや本物の敵となった。敵国はすぐさまN国へ向けて迎撃ミサイルで迎え撃った。
軍事条約を結ぶ敵味方双方の同盟国が、一斉に核ミサイルを発射した。もはや引き返すことの出来ない片道切符。人類最初で最後の全面核戦争が起きてしまった。
二十分後ーー N国の上空をヒューヒューと不気味な音を発しながら花火のごとくミサイルが落下した。
一夜明けてーー
地球はありとあらゆるものが消滅し、地表はドロドロに熔け、太古の地球のごとく赤々と燃える灼熱の球体に変わり果てていた。
このさまを宇宙空間の側から見たら、太陽系に新たな星が誕生したと勘違いするほどであろう。 溶けた地球の地軸はずれ、その影響から一日の長さは六十時間となり、一年は太陽の回りを六百日かけて一周するようになった。
やがて地球は、長い年月を隔てて冷やされた。上昇気流は積乱雲となり、あらゆる場所で豪雨が発生した。溜まった水は海となり、核戦争から約五万年後、海中にアメーバのような新たな生命体が生まれた。
その昔、忘却の国の首相が最後に聞いた言葉は『リセットされました』だった。 N国の首相は、自ら地球のリセットボタンを押してしまったのだ。AIキャサリンが描いた未来に人間は不要だった。彼女は地球のありとあらゆる生命体を滅ぼし、最初からやり直す選択をとった。
あの時、彼女が視た人類の未来とはいったい何だったのだろう。それを知るすべは、もはやこの地球上に残されていない。
( 了 )
コメント
1件