テラーノベル
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バーの出入口近くの個室から、追いかけてきた男性がそう言った。
ヒールを履いた雪緒でも目線が上になる長身。
端正な顔立ちが、柔らかく微笑んでいる。
「……嘘……どうして……?」
一番会いたかった人。焦がれて、求めて、――憎んで。
雪緒は仕立てのよいスーツの襟を乱暴に掴んだ。
そこから覗くネクタイの柄を知っている。雪緒が選んだ、ネクタイだから。
「真。真。真。どこ行ってたの? どれだけ心配したと思ってるの? 真……」
熱に浮かされたように言い募る雪緒を、男性は黙って見つめている。
雪緒はガンガン痛む頭を、男性のネクタイの上……胸のあたりに押し当てた。
――僅かな、煙草の臭い。
なんだろう、何かがモヤモヤする。
でも、真の顔だ。声も。ネクタイも。
きっと、この違和感はアルコールのせいだ。
「めっちゃ酔ってるね。もう帰ったほういいんじゃない? 送っていくよ」
「……送って、くれるの」
「連れの人に、一言言っておこうか」
雪緒が夢見心地で頷くと、その男性はさっきまで高見が抱いていた肩を抱いて、歩き出した。
高見の後ろに並んで立つと、気配に気づいたのか、高見が笑顔で振り返った。
「大丈夫? 部屋行こうか――え、知り合い?」
後の言葉は、雪緒の肩を抱いている長身の男を見上げ、ぽかんとした口から出てきた。
男性は口角を上品に上げ、高見を見ている。
なんだっけ。あれみたい。何とかスマイル。何スマイルだっけ。アル……アルカ……ダメだ、全然出てこない。
でもそんな名前、何だっていい。
真がいてくれてるなら。
もう、私を置いていかないなら。
それだけでいい。
男性の背中に回した手で、スーツを握りしめる。こんな時でも頭の片隅に、皺になるかも、とちらりと過った。
男性の形のいい唇が、別の生き物のように動いた。
「妻がお世話になったみたいで。――夫の、桐野です」