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「就職、おめでとう」
なおちゃんにそう言われて、私は淡く微笑んだ。
職場が離れてしまった私たちは、当然だけど今までみたいに昼休みに会うことは出来なくなってしまった。
そのことを寂しく思っているのは、私だけかな。
なおちゃんは案外気にしていなさそうに見えて、自分から環境を変えたくせに何だかモヤモヤしてしまう。
私の仕事が終わるのは17時。
なおちゃんの定時より15分ほど早い。
本社の方ではサービス残業が当たり前になっているみたいだけれど、幸い私が配属されたのは本社と徒歩5分ぐらいの距離にある工場事務所のほうで。
そちらは基本的に残業なしで帰れるみたいでホッとする。
職場が離れて、昼休みに会うことができなくなってしまった私たちは、仕事後か、休日に会うしか出来ないから。
残業が入ってしまうような職場だったら、毎日なおちゃんと会うことは不可能になってしまう。
そんなのは寂しすぎると思ってしまって――。
***
夕方。
私の実家近くにある、隣県に本社のあるショッピングモールの平面駐車場の一角で、私はなおちゃんの車の横に自分の軽自動車を停めた。
20近い専門店と、スーパーからなるこのショッピングモールは、私が幼稚園児の頃に本館が出来、どんどん拡張して西館、南館などが新設された。
そのくせ立体駐車場などは有しておらず、とにかくだだっ広い平面駐車場――収容台数数百台――の一角に、ホームセンターやファーストフード店などが点在している、地元民御用達のモール。
駐車場内にアレコレ別の店舗が入っているおかげで、モールに用がなくて駐車していても目立たない。
その上駐車料金も終日無料。
駅近の立地も手伝って、ここの駐車場に車を停めて電車で県外に遊びに行く人も多い。
私が転職してからは、ここが私となおちゃんの定番の密会場所になっていた。
転職を機に買った、中古のピンク色の軽自動車は私をあちこちに連れて行ってくれる。
それこそ、望めば我が家から車で40分以上離れたなおちゃん家の近くにだって行くことが出来るのだ。
さすがにそんなことはしないけれど、自転車で移動していた頃より格段に行動範囲が広がったことだけは確かだから。
なおちゃんに請われれば、私、どこにだって出向いて行ける気がした。
それでもなおちゃんは私に気を遣ってか、はたまた自分の居住区に浮気相手を近づけたくないのか、仕事後に落ち合うのは市役所の近くか、私の家の近くばかりで。
「仕事は慣れた?」
スモークガラスに覆われた彼の車の後部シートに乗り込むなりギュッと抱きしめられて、そう問いかけられた。
「ん、大分慣れたよ。同僚も優しいし、上司も工場のおじさんたちも、みんな良い人ばかりなの」
言ったら、「工場の方だっけ?」と聞かれて。
何の気なしに「うん」って答えたら、「同僚の事務員さん以外はみんな男?」ってじっと顔を見つめられた。
「そう。だけどね、独身の人なんてほとんどいないし、誰も最上階にいる事務員のことなんて気にも留めてないと思う」
***
そう。
私が配属された工場は、50人以上の男性作業職員に対して、女性は私ともう1人、先輩事務員の渡辺真帆さんだけ。
渡辺さんはとってもおおらかで気さくな女性で。私より3つ年上の、本当に面倒見がいい素敵な人だ。
「分かんない事があったら遠慮なく聞いてね」
その言葉の通り、自分が忙しい時でも、私が困ったことがあると、嫌な顔ひとつせず、すぐに救いの手を差し伸べてくれる。
広い事務所――机だけは工場長のものや、現場職の課長のものまであるのでたくさんある――に、基本私と渡辺さんのふたりきり。
ここには、1階階段下に小さな現場事務所があって、宮部工場長はずっとそちらに詰めているし、工場長補佐の長和さんもそんな感じ。
おふたりは工場内のどこかにいらっしゃるか、現場事務所で書類と格闘しているかのどちらかで、最上階――階数的には3階だけど、2階の工事スペースの天井がとても高いので実質5階ぐらいの高さに位置している――の、だだっ広い事務所にはほとんど顔をお出しにならない。
私たちがいる最上階のフロアには、一応壁で仕切られた会議室なども完備されているから、来客があった時なんかに、宮部工場長に伴われた客人数名が上がってくることがある程度。
でもそんなことは数ヶ月に1回あるかないかだから気楽なものよと渡辺さんが笑った。
「工場のおっちゃんたち、みんな優しい人ばかりだし、宮部工場長も長和さんも優しいから、本社より断然働きやすいからね。工場配属おめでとう!」
クスッと悪戯っぽく笑いかけてくれた渡辺さんの言葉通り、たまにお使いで行く事がある本社の重苦しい雰囲気に比べたら、工場は天国みたいに和気藹々として働きやすかった。
それでもバイトみたいな形で勤務していた市役所の会計年度任用職員の時と違って、正社員だから、責任のある仕事をバンバン任される。
私たちが主に手がけていたのは、仕上がった製品に添付して客先に提出する「製品検査成績書」の作成だった。
金属メッキ工場だったうちの工場には、スクリューやコンダクターロールなどが常に何種類も客先から預けられていて、それに0.何ミクロンの厚さでメッキを施して出荷する。
検査課の佐藤課長は年配の痩せぎすのおじさんで、口は悪いけれどとても人情味のある人だった。
その人たちが丹精込めて検査したデータを元に、私たちがスクリューの図面などを書いて、成績を打ち込んでから工場長にチェックしていただいて客先への商品に添付して送り出す。
普通図面はCADなどを使うものだと思うけれど、小さな町工場だったからかな。
何故か私たちはExcelで図面を描かされた。
セルの幅を賽の目状になるように設定したシートを200倍の大きさに拡大して線画を駆使して細々としたスクリューの外観を描いていく。
普通は使わないようなエクセルでの図面の書き方のノウハウを叩き込んでくれたのは渡辺さんだ。
こう言う時はこれをこうしたらいいよ、と目から鱗のような方法で巧みに様々な形状を〝Excelで〟作り上げていく渡辺さんの技術に、私はいたく感銘を受けた。
そうして何枚も何枚も図面を描くうちに、私にも渡辺さんと同じようなスキルが身に付いて。
1日にこなせる成績表の数は平均10枚程度。
決して多くはないけれど、毎日がとても充実していて――。
たまに本社の女性陣みんなをお昼休みに工場に招いて、事務所外のテラスでお弁当を食べるのもすごく楽しかった。
市役所では感じたことのない正社員としての〝一体感〟がすごく心地よくて。
唯一不満があるとすれば、責任ある仕事をする中で、たまに発生する残業や職場の立地的な問題で、市役所で働いていた時のようになおちゃんと頻繁に会えなくなったことぐらい。
何となくだけど、なおちゃんは会える頻度が減ってしまったら、その穴を埋めるために新たな女性を作る気がして。
残業があるたびに、それが不安でたまらなくなった。
そう訴えるたび、「俺はそんなに器用じゃないよ」って彼は笑うけれど、現に奥さんがいるのに私と付き合っていることに、なおちゃんはそんなに罪悪感を覚えていないように見える。
きっと私に対しても、そういう不義理なところを遺憾なく発揮しちゃうんじゃないかな?と考えずにはいられなくて。
自分はそんな風に自由奔放なのに、なおちゃんは私が浮気をすることは許さないって言う。
本気ならいいけどって言われても、私にはその違いがよく分からない。
そもそもなおちゃんへのこの気持ちは浮気なの? 本気なの?
私が結婚したいって思える相手ならば本気と見做すとなおちゃんは言ったけれど……だったら私の貴方への気持ちは本気ってことになっちゃうよ?
貴方とは結婚なんて絶対無理だと――そんなのしてくれる気なんてさらさらない相手だと分かっているのに……。
それでも「もしかしたら」という気持ちを捨てきれない私は大馬鹿者だ。
なおちゃんはずるい人だと頭では分かっているのに、私は彼から離れることが出来ないの。
きっと、彼のような浮気性の男性にはありがちなことなんだろうけれど、なおちゃんは女性の扱いがとてもうまい。
それに、一緒にいるときは怖いぐらいに私だけを愛してくれていると錯覚させてくれるから。
冷静な部分では、なおちゃんのこと、さっさと見切りをつけてしまわないと、って焦っているし、この恋に未来はないと分かっている。
それでも尚、私はこの泥沼から抜け出すことができないのだ。
結局のところ、私もなおちゃんと同類の最低な人間なんだと思う。
このモヤモヤとした苦しみは、きっと奥さんを苦しめている自分へのささやかな罰。
なおちゃんは、奥さんには家族としての情のみで、男女としての恋愛感情はないって言うけれど、それはなおちゃんの一方的な言葉に過ぎないって私、分かっているの。
なおちゃんにそのつもりがないからと言って、奥さんも彼に対して恋愛感情がないとは限らない。
そう気付いていながら、そこからあえて目をそらすように妻帯者と一緒にいるんだもの。
私だって、十分に罪深い。
それに――。
なおちゃんだって私の前ではそんな風に言っているけれど、家に帰ったら奥さんに「愛してるよ」ってささやいてるかも知れないもの。
そういう諸々を百も承知で、気付かないふりをして自分の気持ちも誤魔化して。
それだけならまだしも、あわよくばなおちゃんの奥さんの座におさまることができないかしらと夢見てしまうことさえあるのだ。
あえて見ないようにしているけれど、それはなおちゃんの家庭を壊すことなくしては起こり得ない、最低な望み。
***
「菜乃香、何を考えているの?」
気が付けば、なおちゃんが私の制服のベストの前を全開にして、その下のブラウスのボタンも半分以上外した後で。
ブラの肩紐をズラすようにして乳房に口付けながら、上目遣いでそう問いかけてくるの。
「か、い社のこと、とかっ、思い出して、たっ」
声を出そうとするたびに胸の膨らみをやんわり包み込むように押し上げられて。
ブラの布地が敏感なところに時折こすれて思わず声が震えてしまう。
「会社のことって……いい男でもいた?」
その言葉と同時、皮膚にチクリとした痛みが走る。
「やんっ、痛い、なおちゃんっ」
いつもより強めに吸い上げられた皮膚は、赤紫に鬱血して、しばらくは消えそうになくて。
転職したばかりで落ち着かないから、私はまだアパート探しすら始めていない。
もう少し落ち着くまでは、両親たちと実家住まいの身。
両親だって20歳を超えた娘がお風呂に入っているとき、わざわざ覗きにくるようなことはないけれど、それでも脱衣所にいる時などに、不意にお母さんに扉を開けられて話しかけられることはある。
だからキスマークをつけられるたび、私、ソワソワさせられるの。
「お願いっ。あまり痕、付けない、でっ」
それでそうお願いしたら、なおちゃんは聞こえないふりをしてもう一方の乳房にも同じように痣を刻みつけるの。
「菜乃香、悪いけど俺、そう簡単にお前を手放すつもりはないから」
グイッとブラを引き下げられて、まろび出た色付きの先端を噛み付くように強く吸い上げられる。
「あ、んっ、なおちゃっ、強いっ」
あまりにキツく吸われ過ぎて、敏感すぎるそこがジンジンと痺れるような痛みを訴える。
生理的な涙がじわりと浮き上がった視界のなか、もう一方の先端が、なおちゃんの指先でギュッと引っ張られるようにこねられたのが見えて。
「や、ぁっ!」
痛みに思わずなおちゃんの髪の毛をギュッと掴んだけれど、基本的に従順に躾けられた私は、それ以上の抵抗をすることが出来ないの。
「たまに、ね。この可愛らしい乳首を噛み千切ってしまったら、菜乃香はもう俺以外の前じゃ、服、脱げなくなるんじゃないかとか考えてしまうんだ」
怖いことを言って、まるでそれを実行するかのように固く立ち上がったそこを前歯で挟まれて。
私は必死でイヤイヤをする。
「なおちゃん、やめ、てっ。私、なおちゃん以外の前で脱いだりしない、からぁっ」
必死で訴えてみるけれど、なおちゃんにとっては真実なんてどうでもいいのかも知れない。
「きゃっ、ぁ……!」
一瞬だけグッと噛みつく力を強められた私は、ギュッと目を瞑ってその痛みに耐えた。
もちろん、噛み切られるほど酷くはされていないのだけれど、先に言われた言葉のせいで、私、すごくすごく怖くて。
「なおちゃん、信じて。私にはなおちゃんしか見えてないっ!」
例え新しい環境に若い独身男性がいたとして――もし仮にその人が私に好意を寄せてくれたとしても。
私はなおちゃん以外に割くことができる、時間も気持ちのゆとりもないの。
「前にも言ったけど。本気の相手なら……いいんだよ?」
乳房から離れてくれたなおちゃんが、両手でゆるゆると膨らみを弄びながら、耳元でそうささやいてきて。
でも言葉とは裏腹、彼の指先からは「離さないよ?」という意思が伝わってくるようで。
私はフルフルと首を振った。
「私にはなおちゃんだけ、だからっ」
ギュッと自分からなおちゃんに抱きついて、彼の冷たい唇に自ら舌を這わせて口付けを乞う。
転職を機に何か変わるかも知れないと少し期待したけれど――。
きっと変わったとしたら悪い方に、だ。
私はますますなおちゃんにがんじがらめにされていく自分を自覚せずにはいられなかった。