テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「高原さん、次の仕事なんですが……」
派遣会社の小さな会議室。
リクルートスーツを着た私と担当者の前田(マエダ)さんが向かい合わせに座っていた。
前田さんは私が、この派遣会社に登録した時から担当でいろいろ世話をしてくれてる男性社員。
多分、20代後半くらい。
少し長めの髪にメガネをかけ、イケメンの部類に入ると思う。
初めて会った時にはドキッとしたのを覚えている。
でも左手の薬指に指輪をしているのを見た時に、既婚者か彼女持ちだとわかって、気持ちもスーと冷めていったけど。
私は前田さんが出してきた派遣先の資料に目を通す
「高原さんって、事務の経験ありましたよね?だから、この仕事は高原さんにピッタリだと思うんですよね
「はぁ……」
資料を見ながらそんな返事をする私。
資料に書かれている仕事は、中学校の事務の仕事。
確かに事務経験はあるけど私に出来るんだろうか……。
私、高原姫子(タカハラ ヒメコ)
年齢は23歳。
高校を卒業して就職した印刷会社が2年前に倒産。
そこから派遣会社に登録して派遣社員として食い繋いでる状態。
1週間に派遣先の契約が切れ、次の仕事を紹介したいと前田さんから連絡があり、派遣会社のオフィスにやって来たわけだけど……。
「場所も高原さんちから近いし、僕はいいと思いますよ?もし無理なら他の人に回しますが……」
「えっ?」
前田さんの言葉に資料から目を離し、前田さんを見た。
正直、他の人に回されたら困る。
もう1週間も仕事をしてないなんて一人暮らしをしている私にとっては死活問題だ。
資料に書いてある中学校は確かに私が住むアパートから近い。
歩いて行ける距離だ。
就業時間だって時給だって悪くない。
3ヶ月毎の契約で最長1年働ける。
もし上手くいけば、それ以上働ける可能性もある。
「私に出来ますでしょうか……。事務経験と言っても3年しかしてないですし……」
派遣社員に登録して事務はやってない。
3年もブランクがある。
だから迷ってる自分もいて……。
「3年も経験あるなら問題ないです。全くないよりはいいと思いますよ」
「じゃ、じゃあ、やります!」
「そう言ってくれると思ってました」
前田さんはそう言ってニッコリと微笑んだ。
「あの、いつからですか?」
「いつから大丈夫ですか?」
「私はいつでも……。今日からでも大丈夫です!」
そう言って、ぎこちない笑顔を見せた。
けど……。
私の言葉に前田さんは目を大きくして、次の瞬間、笑い出した。
「あ、あの……」
「あ、すみません……つい……」
「いえ……」
私は少し俯いてそう言った。
「先方はすぐにでも来てもらいたいとおっしゃってましたが、とりあえず先方に高原さんのことをお話ししまして、またご連絡します」
「はい……」
「じゃあ、今日はこれでお帰り下さって結構ですよ」
前田さんが席を立つのを見て、私も席を立つ。
会議室を出て、エレベーターまで送ってくれた。
エレベーターが開き、私だけエレベーターに乗った。
「では」
前田さんは笑顔で軽く頭を下げる。
「失礼します」
私は頭を下げて、上げたと同時にエレベーターのドアが閉まった。
前田さんから連絡があったのは3日後の月曜日だった。
派遣会社に行き、契約書の書類にサインをしたりした。
派遣先である中学校には来週の月曜日から行くことになった。
まだ1週間もある。
前回、働いていたところの給料が振り込まれるのは来月だし。
1週間は貯金を崩して生活していくしかない。
とりあえず上手くいけば1年は貯金を崩さなくてもいい生活が出来る。
まぁ、だからと言って贅沢は出来ないけど。
1週間は地獄のような日々だった。
8月の真夏だというのに、エアコンも使わず扇風機と窓を開けっ放しで過し、おかげで手足は蚊に刺されまくった。
食事も1食300円に抑える日々。
おかげで常に空腹で食べ物が夢に出てきたくらい。
その生活とも今日でさよなら。
派遣初日。
いつもより早くに目が覚めて、6枚切り87円の食パンを焼かずにマーガリンもバターも付けずに、そのまま食べ、コーヒーで流し込んだ。
軽くメイクをして、髪を黒いゴムで後ろで纏め、リクルートスーツに着替えた。
前田さんは派手じゃなければ、服装は何でもいいと言ってたけど、初日だけはリクルートスーツで行こうと決めていた。
派遣先である中学校はアパートから徒歩10分の場所にある。
歩いて行こうか、自転車で行こうか迷ったけど歩いて行くことにした。
朝は職員会議や打ち合わせなどでバタバタするらしいけど、私の出勤時間は他の教員や職員と同じように8時。
今日は初日ということで、学校の校門前に前田さんと8時30分に待ち合わせしていた。
時計の針は8時10分をさしていた。
ヤバッ!
私はクリアファイルに纏めた書類をカバンに突っ込み、スマホを充電器から外して、それと家の鍵を持って家を出た。
中学校の校門に着いた時、すでに前田さんが待っていた。
「おはようございます」
相変わらず素敵な笑顔の前田さん。
「お、おはようございます……遅くなって、すみません……」
私は前田さんに頭を下げた。
来校者が来たらここから入るんだろうなぁと思わせるような立派で広い玄関。
カバンの中からスリッパを出して履き替えた。
「事務室は職員室の隣で2階です」
前田さんの言葉に頷いて、前を歩く前田さんについて歩いた。
今は夏休みで静かな校舎。
遠くの方から吹奏楽部の練習している楽器の音が聞こえくる。
普段は生徒たちで賑やかなんだろうな……。
2階は、階段を挟んで廊下の左側に職員室と事務室、他に保健室や校長室、会議室などがあった。
右側1年生の教室がA〜Dまで4クラスある。
スリッパの音をなるべくさせないように歩くけど、ペタペタと音が静かな廊下に響く。
「ここで待っていて下さい」
「はい」
前田さんは事務室のドアをノックして、ドアを開けると中に入った。
私は前田さんの指示通りに事務室前の廊下に立って待っていた。
しばらく経って、前田さんと一緒に事務室から出て来たのは、見た目は40代半ばくらいの女性の職員さんだった。
「高原さん、こちら高原さんの指導をしてくれる宮崎(ミヤザキ)さん」
「あ、今日からお世話になります高原姫子、です。宜しくお願いします」
私は頭をペコリと下げた。
「宮崎です。校長室に案内しますね」
宮崎さんはニコリともせず、私の頭の先から足の先までをジロリと見たあと、そう言って校長室に向かってスタスタ歩き出した。
その後ろに前田さん。
一番後ろを私がついて歩く。
出だしから挫かれた……。
やって行けるんだろうか……。
私の頭の中は不安という二文字でいっぱいだった。