〜第1話〜
翌日に控えた、俺たちのアニバーサリーライブ。
大切なライブだからと、三人で張り切って準備を進めてきた。
そして、ついさっきリハが終わったばかりのこのスタジオ。リハでの熱気は嘘だったかのように、ものの数分で人の気配が消えていき、そこにはすっかり静寂が訪れていた。ドラムの余韻も、アンプに残った熱も消え失せ、機材たちの温度がなくなっていく。
…異様な空気が、辺りを包んでいくのがわかる。
今日のリハーサル…元貴の背中が、いつもより少しだけ硬かった。
「もう一回、ここだけお願いします」
元貴がそう言ったとき、誰も反対しなかった。それは客観的に見ても悪い演奏だったわけじゃない。むしろ全体としてまとまっていたと思う。それでも元貴は「もう一回」、そう言った。そして、歌う前と歌った後で、元貴の呼吸の深さは微かに違っていた。
でも、そのことに、その場にいたほとんどの人が気づいていはいないようだった。
恐らく、気づいていたのは俺と、もう一人。涼ちゃんも、きっと気づいていた。ただ、いつも通り自然に振る舞っていただけだと思う。そういうところが、あいつの優しさでもある。
元貴の「もう一回」に従って、もう一度演奏が始まる。コードが重なって、ドラムが鳴って、いつものミセスの音になっている、はずなのに。
バンドの中心に立っている元貴の声だけが、わずかに震えていた。気にするほどじゃないと言われたらそれまでだけど、気にせずにはいられなかった。
リハが終わり、スタッフさんとの確認も済ませて片付けを始めた頃。元貴がアンプの前で黙りこんでいた。
ギターを抱えてるわけでもなく、アンプの調子を確認するわけでもなく。ただただ一点を見つめて立ち尽くしていた。
「元貴?」
そう呼ぼうとして…やめた。
呼んだところで、答えはどうせ「大丈夫」だから。この一年で、何回あの言葉を聞いたんだろう。ああ言われるたびに、本当にそうなのか、と考えてしまう。でも、元貴のあの言い方で言われると、無理にそれ以上は踏み込めなくなってしまう。…元貴なりの、優しさだろうから。だからこそ、言えないんだけどね。「大丈夫じゃなさそうだけど」なんて。
涼ちゃんも、同じなんだと思う。近くにいるのに、手を伸ばせない。気づいているけど、触れられない。
そんな、不穏な空気だけが漂っているスタジオの中は、不気味なくらい静かだった。元貴が口を開いてくれたのは、スタッフさんがほぼ全員出ていった後だった。
「…ごめん。俺、上がってるとか、そういうわけじゃないんだけど、ちょっと…」
その言葉の続きを、元貴は言わなかった。「ちょっと」なんなのか…気になったけど、多分、元貴本人もよく分かってないんだと思う。その顔から、困惑の色が滲み出ている。
俺はギターケースのチャックを閉めながら、返す言葉を探した。
「気にしすぎんなよ」は軽すぎる。
「大丈夫?」は重すぎる。
「何があった?」なんて聞けるはずもない。
そこでふと目が合ったのは涼ちゃんだった。涼ちゃんも同じなんだ。言うべき言葉を探して、結局、見つけられない。
涼ちゃんがダメなら、俺が何か、言わないと。
でも、俺が言ったところで…今まで、元貴が弱さを見せてくれたことは、ほとんどなかった。元貴が、周りから完璧で強い人だと思われてるから、そしてそれを、本人が背負いすぎているから。そこにひびが入った時、どこまでを俺たちに見せてくれるのか、正直、わからない。…見せてくれる、自信がない。
それでもできるだけ、寄り添ってあげたい。なのに、触れたら壊れてしまいそうで。…触れなくても、壊れてしまいそうで。
どっちが正解なのか、俺にはわからなかった。
だから俺は結局、「帰るか」と言ってしまった。元貴は、「ありがとう」でも「うん」でもなく、声にもならないような返事をして、スタジオを出て行った。涼ちゃんも何か言いかけていたけど、結局…その言葉を聞くことはできなかった。
帰り道。深夜の空気は肌を刺すような冷たさだった。
元貴は前を歩いていて、涼ちゃんは俺の隣で、いつもより大きく間隔を空けて歩いていた。
誰も何も言わない、淀んだ空気。
「言えよ」って、何回も思った。元貴に対しても、涼ちゃんに対しても、そして、自分自身に対しても。
誰か一人が言えば、きっと、この沈黙は崩れる。全員分かってるんだろうけど、何も言えない。
帰り際、元貴は軽く手を上げて
「…じゃ、また明日」
と言った。その一言だけが妙に強く響いて、言葉の裏に隠れている迷いを、俺はどうしても、見落とせなかった。
涼ちゃんとも別れて、部屋に戻ったのは、日付が変わる直前だった。ギターをケースから出し、弦を一本だけ張り替えることにした。理由なんて特にない。ただ、今日の自分が、いろんな意味で弛んでいた気がして、そのせいで音も、気持ちも揃ってなかった気がして…それが、嫌だった。張り替えた弦を軽く弾くと、澄んだ音が静かな部屋に広がった。
その爽やかな音を聞きながらも、今日の元貴の姿は頭から離れなかった。もしかしたら…明日、もっと悪い方向にいくかもしれない。嫌な予感が、胸に重く沈む。
そんな気持ちから逃げるように弦の状態を確認すると、少し緩く感じた。さらにギターのペグを回す。するとその時。
ブツッと音がして、張り替えたばかりの弦が切れてしまった。なぜかそのことが心にきて、ぼそっと呟く。
「…張りすぎたら、切れるもんな」
そんなこと当たり前で、初心者の頃からわかってたはずなのに。そんな当たり前のことすらできなくなってしまった。…こんなヘマしたの、いつぶりだろう。
もう一度、落ち着いて弦を張り替える。それから確認のために少しだけギターを弾いたけど、それ以上は、…弾く気になれなくて、すぐにピックを置いた。
そして、ギターを構えたまま、切れた弦を見つめる。
張りすぎたら、切れる。たったそれだけのことなのに、なんだか胸騒ぎがする。
…この弦、まるで、今の…
そこまで考えて、考えるのをやめた。
小さく深呼吸をして、ギターをそっと寝かせる。部屋の灯りも落とした。 暗闇の中、眠りに落ちるその時まで、指先に残る弦の感触だけが消えずに残っていた。
コメント
7件
凄ーー!!!...え、ほんとにすごいな、圧巻...最後、今の❤️さんたちの状況を張りすぎて切れた弦で例えるの天才かと思ったよ...!!天才だよ!!題名が「ニュー・マイ・ノーマル」!!続きが楽しみです...!!!💗💗