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牛車の中で、頼近は、琵琶を抱え、男子らしからぬ細い指で、弦を爪弾いている。
調子外れの、耳障りな音が鳴りわたる。
あれから、男は、逃げるように去った。いや、逃げた。
頼近は、吊るされている琵琶を結ぶ紐を外すと、琵琶を抱き、宗孝と共に牛車へ戻った。
「……つまり、すべては、あの男の仕業なのだ。これを見ろ」
頼近は、向かい合わせに座る宗孝へ、琵琶を近づけた。
「うむ。そう男が白状したではないか、頼近よ」
何が言いたいのか分からぬと、宗孝は、琵琶ではなく、頼近を見た。
「……ここだ。この琵琶の腹の部分だ。撥面に、蒔絵が施されているだろう?」
琵琶は、バチが当たる、痛みやすい腹の部分──、撥面を強化させる為に、牛や鮫の皮を貼り付ける。
この琵琶は、さすが雅楽寮のものだけあった。何かに疎い宗孝にでも、一目で分かるほど、撥面には、繊細で手の込んだ蒔絵が施されている。
頼近が言うには、この蒔絵付きの楽器は、揃い、なのだそうだ。
特別な催しにのみ使う、雅楽寮の楽器で、すべてに同じ意匠の蒔絵が施されているのだという。
「成る程、だから、吊るされている琵琶を見て、お主は、男へ雅楽寮の楽人と、言ったのか」
ああ、と、宗孝へ生返事をしながら頼近は、弦を再び爪弾いた。
「……これは、音の調子が狂い過ぎている」
うーんと、首を傾けると、宗孝よ、と、頼近が言う。
「これ程ひどい音はないぞ。あの男は、そもそも、琵琶を奏でる事ができたのだろうか?」
「……と、いうと?」
「音の合わせが、これだ。琵琶などに、興味など無かったのだろう。そして、バチ、だよ。バチを忘れるなんて、有り得ない。琵琶を仕舞う包み袋には、バチも入れられるようになっているはずだ。そして、これは、特別仕様の物。そもそも共に使う物を、別々に保管したりはしないだろう?つまり、男は初めから、バチを抜いていたのだ」
そこは、宗孝も、引っかかっていた。琵琶のバチだ。他の楽器の物より、はるかに大きい。それが、知らぬ間に、懐に入っていたなど、あり得ない。頼近の言うことに、間違いないだろう。
男は、初めから、バチを抜いていた。
そして、男は、バチの行方を語っていない。
仮に、誰かに懐へ入れられたとする。言うように、転がり落ちたのなら、何らか、その時、騒ぎになったはずなのに──。
「私が思うに……」
頼近が、淡々と言う。
男は、楽器の管理者であった。しかし、琵琶の音が、上手く合わせられない。内々の、練習の時は、誤魔化せたが、本番の舞台に怖じ気づき、琵琶を奏でなくとも良い方法をとっさに考えたのではあるまいか──。
頼近は言いつつ、
「だが……それは、善人が行うことであり……」
そのまま、口ごもる。
そして、再び、弦を爪弾くが、やはり酷い音だと、顔をしかめきった。
宗孝も、そんな音では、鬼も嫌がるだろうと、ほくそ笑む。
「これだけの品なのになぁ……」
「おや、頼近、鬼から横取りするつもりなのか?」
なんと、人聞きの悪い事をと、頼近は、宗孝へ返答するが、なぜか、琵琶を放そうとしなかった。
音が酷いと言いつつも、頼近は、幾度も、爪弾く。よほど、この琵琶が気に入ったのだろう。
「これは、私が上へ、報告する為の証拠品だ……無くしてはなるまい?」
ふふと、これからの騒ぎを思ってか、頼近は楽しそうに笑った。
(……なんだ、この語りは、検分だったのか。)
宗孝は、拍子抜けした。
てっきり、頼近が、琵琶を気に入り、持ち帰ると言い出して、二人だけの話にしてくれないかと、懇願してくると思っていたからだ。
「事が、事だ。そのまま、鬼の仕業にした方が、収まりやすいだろうなぁ……」
誰に語るわけでもなく、頼近は呟き、考え込む。
「ああ……そうだな」
歯切れの悪い返事をしつつ、宗孝は、思う。
さすがは、出世頭の中将、話を上手くまとめる……と。