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第5話 月夜のひと匙、思い出のスープ
その夜は、不思議なくらい月が大きかった。
雲ひとつない夜空の真ん中に、まん丸の月が浮かんでいる。
まるで誰かが丁寧に磨いた銀の皿のように、町を静かに照らしていた。
喫茶猫又亭の暖簾が、秋風にふわりと揺れる。
軒先の風鈴が、
――ちりん。
と、小さく鳴った。
店内では、珈琲豆を挽く音が響いている。
ごり、ごり、と。
一定のリズムで続く音は、夜の静けさによく馴染んでいた。
カウンターの向こうでは、たまがカップを磨いている。
薪ストーブの前では、クロが丸くなって眠っていた。
いつもと変わらない、穏やかな夜。
そう思っていた。
その時だった。
からん――。
引き戸が、ゆっくりと開いた。
「……まだ、開いているかの」
少し低く、枯れた声。
たまが顔を上げる。
戸口に立っていたのは、一匹の狸の妖だった。
年齢は、もう数えることをやめてしまったほど重ねているように見える。
灰色の毛並み。
右耳は半分ほど欠けていて、左目には古びた包帯。
手には、長い年月を使い続けてきた杖。
藍色の羽織には何度も繕った跡があり、袖口は少し擦り切れている。
それでも。
その目には、どこか穏やかな光があった。
たまは、少しだけ目を細める。
「あら……」
そして、懐かしそうに笑った。
「源さん。」
「おう。」
狸の妖――源は、照れくさそうに鼻を掻いた。
「久しぶりじゃの。」
「お久しぶりです。」
「もう忘れられたかと思っとった。」
「そんなことありませんよ。」
たまは笑う。
「ちゃんと覚えています。」
「そうか。」
源は店内を見回した。
木の床。
小さな照明。
窓辺の植物。
珈琲の香り。
何もかも、昔と変わらない。
いや。
変わっているのかもしれない。
けれど、長い年月を生きてきた源には、その違いよりも残っているものの方がよく分かった。
「……懐かしいのう。」
ぽつりと呟いて、いつものカウンター席へ腰を下ろす。
椅子が、小さく軋んだ。
「珈琲にしますか?」
「いや。」
源は少し迷ってから、顔を上げた。
「今日は……あれを頼みたい。」
「はい。」
「まだ、作ってもらえるかの。」
たまは何も聞かない。
ただ、源の顔を見つめる。
そして。
「月夜スープ、ですね。」
源の眉が、ほんの少し動いた。
「……覚えとったか。」
「もちろんです。」
たまは静かに微笑んだ。
「忘れられるものではありませんから。」
「そうか。」
源は小さく笑った。
「おれもじゃ。」
*
たまは厨房へ戻った。
棚から古い鍋を取り出す。
その鍋を見たクロが、眠そうに顔を上げた。
「月夜スープ?」
「うん。」
「久しぶりだね。」
「そうね。」
たまは鍋に火を入れる。
鶏ガラから取った澄んだ出汁。
そこへ、玉ねぎ。
人参。
じゃがいも。
きのこ。
どれも特別なものではない。
けれど、ひとつだけ。
小さな瓶を棚から取り出す。
中に入っているのは、淡い金色の蜜。
月の光を浴びて咲く月見草から、ほんの少しだけ採れる蜜だった。
甘さは強くない。
けれど、料理に一滴加えると、不思議と香りが丸くなる。
たまは瓶を傾けた。
一滴。
鍋の中へ落とす。
ふわり。
優しい香りが立ち上った。
その瞬間。
カウンターにいた源の耳が、ぴくりと動いた。
「……この匂いじゃ。」
源は目を閉じる。
遠い昔の景色が、鼻の奥からゆっくりと蘇ってくる。
月明かり。
小さな足音。
笑い声。
そして。
少しだけ震えた声。
――あったかい。
源は目を開けた。
「……まだ、残っとったんじゃな。」
たまは厨房から源を見る。
「何がですか?」
「いや。」
源は笑った。
「なんでもない。」
*
しばらくして。
「お待たせしました。」
たまが白い器を運んできた。
湯気が、ふわりと立ち上る。
澄んだスープの中に、柔らかく煮込まれた野菜。
小さく切った鶏肉。
きのこ。
そして、ほんの少しだけ月見草の蜜の香り。
源は器を見つめた。
「……変わらんのう。」
「ええ。」
「見た目も。」
「味も?」
「それは、これからじゃ。」
源は少し笑う。
スプーンを手に取った。
湯気に息を吹きかける。
そして。
一匙。
口へ運んだ。
「……。」
源の手が止まった。
味は、覚えている。
あの日と同じ。
薄すぎず。
濃すぎず。
野菜の甘さが、出汁の中にゆっくり溶けている。
けれど。
本当に戻ってきたのは、味だけではなかった。
*
――昔。
まだ源が若かった頃。
一匹の小さな狸がいた。
親を亡くし、行く場所をなくした子だった。
源は、その子を弟子にした。
料理を教えた。
山菜の見分け方。
火の起こし方。
包丁の使い方。
出汁の取り方。
「焦るな。」
「はい。」
「味見をしてから塩を入れろ。」
「はい。」
「返事ばかりじゃなくて、たまには自分の意見も言え。」
「……はい。」
「そこも、はいなのか。」
そんな毎日だった。
その子は、あまり笑わなかった。
嬉しくても。
褒められても。
悲しくても。
どこか遠くを見ているような目をしていた。
けれど。
この店へ来た時だけは違った。
修行の帰り。
二人で猫又亭へ立ち寄る。
そして、決まって月夜スープを頼む。
器が届くと、その子は必ず両手で器を包んだ。
「熱いぞ。」
「……はい。」
「ゆっくり飲め。」
「はい。」
そして。
一匙。
また一匙。
最後まで飲み終えると。
小さな声で言う。
「……あったかい。」
それだけだった。
けれど源には、その一言が嬉しかった。
この子がこの場所でだけ見せる、ほんの少しの安心。
それだけで十分だった。
*
源は目の前のスープを見つめる。
「……あいつはな。」
ぽつり。
言葉が落ちた。
「最後まで、あったかいものが好きな奴じゃった。」
たまは黙って聞いている。
「火事があったんじゃ。」
源の声が、少しだけ低くなる。
「人の村でな。」
「逃げ遅れた子どもがおった。」
そこで一度、言葉が止まる。
「……あいつは、助けに行った。」
源は苦笑する。
「妖のくせに、人間の子どもを助けに行ったんじゃ。」
怒っているようにも。
誇らしいようにも聞こえた。
「馬鹿な奴じゃ。」
源は笑った。
「ほんとうに、馬鹿な奴じゃった。」
それ以上は言わなかった。
たまも、何も聞かなかった。
ただ、静かに源の前へ珈琲を置いた。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。」
源はスープをもう一匙すくった。
「最後に会った時な。」
小さく息を吐く。
「『師匠』って呼んだんじゃ。」
「はい。」
「それから……。」
源は目を閉じた。
あの日の声を思い出す。
弱々しいのに。
不思議なくらい穏やかな声。
「『あったかいですね』って。」
源の頬を、一筋の涙が伝った。
「それだけじゃった。」
*
クロが椅子から降りた。
とことこと源の足元まで歩いていく。
そして、何も言わずに身体を寄せた。
「……お前は変わらんのう。」
源はクロの背中を撫でる。
「昔から、こういう時だけ寄ってくる。」
「クロは、そういう子ですから。」
たまが微笑む。
「言葉より先に分かることもあるんですよ。」
「そうじゃな。」
源は小さく笑った。
そして、またスープを飲む。
一匙。
また一匙。
今度は、涙を拭かなかった。
*
やがて。
器の底が見えた。
最後の一滴まで飲み終える。
源は空になった器を見つめた。
「……不思議じゃ。」
「はい?」
「昔は、この味を思い出すだけで苦しかった。」
少しだけ笑う。
「だから、ずっと避けとった。」
「でも。」
源は器を撫でる。
「今日、久しぶりに食べたら。」
窓の外を見る。
満月が静かに浮かんでいる。
「苦しいだけじゃなかった。」
月明かりが、源の横顔を照らす。
「ちゃんと、あったかかった。」
たまは静かに笑った。
「それなら、よかったです。」
「……うん。」
源は頷いた。
「あいつが最後にくれた言葉も。」
「今なら、ちゃんと覚えていられそうじゃ。」
*
しばらくして。
「お会計を。」
源が財布を取り出す。
「今日は結構ですよ。」
「そうはいかん。」
「では……。」
たまは少し考える。
「また来てください。」
「それが、お代です。」
「……それでええのか?」
「はい。」
たまは笑う。
「猫又亭は、何度来ても大丈夫なお店ですから。」
源は少し照れたように笑った。
「そうか。」
杖を手に取る。
「じゃあ、また来る。」
「お待ちしています。」
*
からん。
扉が開く。
冷たい夜風が店内へ入り込んだ。
源は一歩外へ出る。
その背中を、月が照らしている。
「……師匠。」
ふと。
どこからか、小さな声がした気がした。
源は振り返った。
誰もいない。
ただ。
風に揺れた木の葉が、さらさらと音を立てている。
源は少しだけ笑った。
「……またな。」
そう呟いて、夜道を歩いていった。
*
店内へ戻ると。
クロがカウンターの上を見ていた。
「たま。」
「どうしたの?」
「これ。」
カウンターの上には、一枚の古びた木札が置かれている。
いつからそこにあったのか分からない。
表には、小さく。
――源。
裏返す。
そこには、かすれた文字。
――また、月がきれいな夜に。
たまは木札をそっと指でなぞった。
「……昔から、律儀な人だったからね。」
「誰が書いたのかな。」
「さあ。」
たまは微笑む。
「でも、きっと大切な言葉だったんだと思う。」
木札を両手で包む。
そして、店の奥にある小さな神棚へ静かに置いた。
*
夜は、少しずつ深くなっていく。
クロはストーブの前へ戻った。
たまはカウンターを拭く。
そして、厨房の鍋を洗いながら月を見上げた。
「クロ。」
「なに?」
「料理って、不思議だね。」
「うん。」
「同じ味でも。」
たまは空になった鍋を見る。
「誰と食べたかで、全然違うものになる。」
「……そうだね。」
「だから。」
たまは小さく笑った。
「思い出の味って、料理の中にあるんじゃないのかもしれないね。」
「じゃあ、どこにあるの?」
「その人の心の中。」
月明かりが、厨房の床へ細く伸びている。
「料理は、そこにあるものを見つけるきっかけなのかもしれない。」
クロは目を細めた。
「じゃあ、今日のスープは?」
たまは少し考える。
「きっと。」
そして、優しく笑った。
「『忘れたくなかった時間』を、もう一度温めるスープだったんじゃないかな。」
*
その夜。
猫又亭の明かりが消える少し前。
窓の外には、まだ満月が浮かんでいた。
どこか遠くで。
風鈴が鳴る。
――ちりん。
その音に重なるように。
小さな声が聞こえた気がした。
――あったかい。
たまは振り返る。
けれど、誰もいない。
ただ、月夜スープの香りだけが、ほんの少し厨房に残っていた。
たまは微笑む。
「……また、いつでもどうぞ。」
誰に向けた言葉なのか。
たま自身にも分からなかった。
けれど。
猫又亭の灯りは、その夜も消えなかった。
忘れてしまった人も。
忘れたくない人も。
思い出すのが怖い人も。
もう一度、思い出してみたい人も。
いつかここへ帰ってこられるように。
月夜の下。
小さな喫茶店は、静かに夜を灯していた。
――今日も猫又亭は、まったり営業中。
コメント
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ああ、第6話、すごく沁みました……。源さんの後悔と愛がぎゅっと詰まった月夜スープ、そして「苦しいだけじゃなかった」って言えた瞬間、読んでるこっちもじーんと来ましたね。あの木札に刻まれた「また、月がきれいな夜に」という言葉、静かに心に残りました。猫又亭の温かさが、ただのスープ以上の何かを運んでくる話、大好きです。