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結葉の勤め先の縫製工場は、毎月第2、第4土曜日が休み、それ以外は出勤日になっている。
「病院、土曜なら1日中やっているみたいだから福助連れて行ってくるね」
健康診断も兼ねて、休日の土曜に当たる今日、結葉は隣町の動物病院へ行こうと思っている。
「『みしょう動物病院』ってどんな漢字を書くんだろ?」
母親に勧められた病院をスマートフォンで調べてみたら、ひらがなで〝みしょう〟と書かれていて。恐らくは先生の苗字なんだろうな、と思った結葉だ。けれど、それがどんな字を当てるのかは皆目検討が付かなくて。
行けば、どこかに漢字表記があるかしら、とか思いつつスニーカーに足を通す。
「結葉、病院まで父さんが車に乗せて行ってやろうか?」
運転免許は持っているけれど、車を持たない結葉はいわゆるペーパードライバーだ。
ハムスターは小さめの移動用ケージに移しているとはいえ、いつもより手荷物が多めに見える一人娘を心配して、父親の茂雄が靴を履いている結葉に声をかけてきた。
「有難う、お父さん。でも……いつも乗せて行ってもらえるとは限らないし。今日はバスで行ってみようと思うの」
母――美鳥――は車の免許自体を持っていない。
基本的には仕事で不在なことが多い父を頼るのは、有事に備えて極力避けておこうと思った結葉だ。
自分がふんわりしていて周りに流されやすかったり、抜けているところが多いことを自覚している結葉は、なるべくそういうのを表に出さないようにしたいと常日頃から考えている。
今回の福助の通院にしても、1週間以上前から計画を練っていたから、恐らく抜かりはないはずで。
だからこそ自力でやり遂げてみたいと思った。
「分かったよ。でも本当、何かあったら遠慮なく電話してくるんだよ? 今日は父さんも仕事休みだからね」
幼い頃から結葉を溺愛してやまない父は、今日も娘にデロデロに甘い。
「うん。分かった。有難う。行ってきます」
結葉はそんな父親の心配そうな顔ににっこり笑いかけると、両手が空くようにと選んだ小さめのリュックサックと、マチのひろい手作りトートバッグ――美鳥が作ってくれた――に入った福助とともに自宅を後にした。
***
「おや、結葉ちゃん。今日はお仕事お休みかい?」
すぐ隣の山波建設の前を通りかかったら、外で廃材整理をしていたらしい想の父親公宣に声をかけられた。
「はい」
いつもならスカートスタイルを好む結葉だけれど、今日は動きやすいようにインディゴブルーの、デニム地のワイドパンツを履いている。
トップスも、凝ったデザインではなくシンプルな、白のロゴ入りTシャツを選んだ。
Tシャツには、何故だか分からないけれど、筆記体で「Sugar!」と感嘆符付きで書かれている。
前に、結葉は想から「意味の分からん英語の書かれたTシャツは着るなよ?」と釘を刺されたことがある。
妹の芹が持っていたTシャツがエッチな内容のロゴTだったらしく、大学でアメリカ人准教授から、「そういうつもりがないなら着ない方がいいよ。襲われてしまう」と教えられて、真っ赤な顔をして帰って来たことがあるらしい。
想は結葉にどんなことが書かれていたのかは教えてくれなかったけれど、口にするのも憚られるような内容であることは確かだったみたいだ。
結局そのTシャツは現場でウエスとして使ったのち、廃棄処分したらしい。
ネイティブではないからスラングみたいなものだとパッと見には意味が分からないし、以来結葉もTシャツのみならず、色々なものの外国語ロゴには気をつけるようになった。
そんなわけで、今日は「砂糖!」とある意味分かりやすく胸に描かれたTシャツを着て外出の結葉だ。
想がいたら「何で砂糖?」と言われてしまいそうな気はしたけれど、今日はどうやら彼はいないみたいで。
結葉が無意識に想を探してキョロキョロと辺りを見回していたのがバレたんだろう。
「ああ、想なら今日はもう現場だよ」
と言われてしまった。
何だか想の父親に、彼の息子への恋心の端っこを掴まれたみたいで無性に恥ずかしくなった結葉は、すぐには何も言えなくて。
そもそも眼前の公宣だって、想に彼女がいることは知っているはずだし、結葉の想への報われない片思いを可哀想だと憐まれてしまうかも?と考えたら何だか嫌だった。
「また想がいる時に遊びにおいでね」
公宣の、どう言うつもりで発せられたのか分からないセリフと優しげな笑顔に、結葉は居た堪れなくなって、「……い、行ってきます」と少しズレたことを答えて、逃げるようにその場を去った。
バス停が、曲がり角の先でよかった、と思いながら。
***
『みしょう動物病院』は、結葉の自宅最寄りのバス停から、バスで15分ほど揺られた先にあった。
降りた先のバス停から数メートルしか離れていない立地に、結葉はとても交通の便がいいなと思って。
停留所の時刻表を確認すると、バス自体も10分おきくらいの間隔で運行しているのが分かってとても有難かった。
ここなら車に乗れない結葉でも、福助を連れて通えそうだなとホッとする。
でも、どんなに評判のいい病院でも、自分との相性もある。
その辺りはどうかな?とドキドキしながら結葉が見上げたその建物は、薄いベージュの柔らかな色合いの壁と、赤系の粘土瓦(洋瓦)が混ぜ葺き仕様に配された屋根を持つ、お洒落な平家建ての洋風建築だった。
地面から腰くらいの高さまで、屋根の洋瓦に似た煉瓦っぽい素材が壁を覆ったツートンカラーになっているところも、小粋で可愛らしく見える。
その壁の、駐車場に面した側――エントランスの屋根上――には、犬や猫やウサギなどのシルエットが黒々と大きく描かれていて、その絵の横に、筆記体で『Misho animal clinic』と続いていて。
それがあるから、ここが大きな一戸建ての一般住宅などではなく、紛れもなく動物病院なのだと実感させられる。
もちろんそれだけではなくて、車が20台ほど停められる、アスファルト舗装された駐車スペースがあるのも一般の家としては異質だし、おまけにその駐車場に大きな看板が出ていて、『みしょう動物病院』と日本語で書かれているのだから、ハッキリ言って間違えようがない。
ちなみにそちらの表看板には、病院名の下に診療時間などが一眼でわかる「診療案内」とともに、診察可能な生き物の種類として「犬・猫・小鳥・うさぎ・フェレット・ハムスター・爬虫類」が明記されていた。
思ったより新しい上、とても大きな病院に見えて、結葉はちょっぴり気後れしそうになる。
そんな弱気な気持ちを、福助のキャリーが入ったトートバッグの持ち手をギュッと握ることで吹き飛ばすと、自動ドアの前に立った。
扉が開いて内側に足を踏み入れてみると、動物たちへの配慮だろうか。
更にもうひとつ、タッチスイッチ付きの自動ドアがあって。
ガラス張りのドアの向こう、放れている生き物がいないことを確認した結葉は、2枚目自動ドアのタッチスイッチボタンに軽く触れて扉を抜ける。
と、すぐ目の前の受付にいる女性と目が合った。
(わ、綺麗な女性)
清潔感あふれるショートボブの、自分と同年代ぐらいと思しきその女性は、モデルさんみたいに小顔だった。
キリッとした美人で、可愛い系と称される結葉とは真逆のタイプに見える。
前面はサーモンピンクで、背中側が小豆色になった切り替えカラーのスクラブがとっても似合って見えた。