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#契約結婚
草原草原

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草原草原

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「地下二階に、何の用があったのですか」
柏木室長の声は、平らだった。
「十二月と、昨夜。どちらも、夜の十時近くです。文書庫の鍵は、総務の管理です。あなたのカードで開くのは、その手前の扉までのはずです」
私は、紙の上の、自分の名前を見ていた。
「監査の資料を、探していました」
眼鏡のつるに、指が触れた。
「鷹宮不動産の、古い帳簿を」
室長は、私の指を見ていなかった。私の顔も、見ていなかった。
手帳を開き、ペンで何かを書きつけた。
「わかりました。この件は、私から社長に報告します」
それだけ言って、室長は自分の席に戻った。
疑われるより、ずっと怖かった。
何も聞かずに書きとめるのは、もう答えを持っている人のやり方だった。
その日、社長は、地下二階のことを一言も口にしなかった。
夜、家に帰って、豚汁の鍋の火を止めたとき、ようやく、背中のほうから声がした。
「柏木から、聞いた」
「……はい」
「もう、地下には行くな」
振り向くと、社長は、ダイニングテーブルの椅子の背に手をかけて立っていた。
砂嵐の顔だった。
「行くなら、私に言え。私が、一緒に行く」
それだけ言って、社長は椅子を引き、黙って箸を取った。
叱られたのか、守られたのか、わからなかった。たぶん、その両方だった。
社長は、その夜、豚汁を二杯おかわりした。
*
子会社の監査報告会は、一月の第三月曜に開かれた。
四十二階の大会議室。楕円のテーブルを、取締役たちが囲んでいる。社長、副社長、財務の取締役、社外取締役の三人。堂島常務の席は、もうなかった。
壁際には、会計士の二人と、柏木室長。子会社管理部の部長たち。
テーブルの端の、説明する人間の椅子に、江藤部長が座っていた。
駐車場で会った日から、部長は、一度も私と目を合わせなかった。
上座のほうも、見ようとしない。
見ないようにしている人の、首の角度だった。
報告は、年かさのほうの会計士が読み上げた。
鷹宮不動産の修繕工事のうち、八年間で八件、合計五億二千万円について、工事の実態が確認できない。発注先の株式会社ミナト設備は、本店所在地に事務所の実体がない。工事写真のうち五件に、同一の足場の使い回し。
読み上げが進むにつれて、会議室の空気が、重く沈んでいった。
「江藤部長」
社長が言った。
「発注の書類は、すべて君が作ったものだな」
「……はい」
「誰の指示だ」
部長は、答えなかった。
唇が、内側に巻き込まれた。上の唇と下の唇が、白くなるほど、口の中に押し込まれていく。
言葉を、飲み込む人の口だった。
「江藤くん」
副社長が、穏やかに言った。
「正直に話してくれていいんだよ。ここにいる皆、君を責めるために集まったんじゃない」
部長の肩が、びくりと震えた。
唇は、閉じたままだった。
*
社長が、私を見た。
私は、立ち上がった。眼鏡を外す。
楕円のテーブルの向こうで、江藤部長の痩せた顔が、くっきりと見えた。
「江藤部長。はい、か、いいえで、お答えください」
部長の目が、初めて、私を見た。
「ミナト設備に支払われたお金は、江藤部長の口座に入りましたか」
「……いいえ」
三秒。四秒。五秒。
一本の線。
この人は、一円も受け取っていない。
会議室の何人かが、意外そうに顔を見合わせた。
私は、質問を変えた。
「では。江藤部長は、この工事のことを、誰にも報告していない。そう、言えますか」
部長は、口を開いた。
何かを、言いかけた。
それから、ゆっくりと、口を閉じた。
唇が、また内側に巻き込まれていった。
答えは、なかった。
私の目は、口にされた言葉しか読めない。言われなかった言葉は、読めない。
けれど、言えない、ということは、わかった。
言えば、嘘になるから、言わないのだ。
この人は、誰かに報告していた。毎年、誰かの電話を受け、誰かに、終わりましたと告げていた。
「質問は、以上です」
「瀬名さん」
社外取締役の一人が、眼鏡を外しながら言った。白髪をきれいに整えた、年配の女性だった。
「今のやりとりは、どういう意味かしら」
「江藤部長は、お金を受け取っていません。でも、一人でやったのでもありません」
「それは」
副社長が、やわらかく言葉を挟んだ。
「瀬名さんの目で見たことかい。それとも、瀬名さんの推測かな」
一本の線。
私は、少しだけ黙った。
「……推測です」
副社長は、そうか、とうなずいた。それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、会議室の空気は、もう、そちらへ流れていた。
私は、椅子に座った。
会議室の誰も、すぐには口を開かない。
副社長は、手元の資料に目を落としていた。丸い眼鏡に天井の明かりが映って、その奥の目は見えなかった。
*
決議は、短かった。
江藤健一、諭旨退職。損害賠償の請求と、刑事告訴の検討。
読み上げられる間、江藤部長は、一度も顔を上げなかった。最後に、テーブルに向かって、額が膝につくほど深く頭を下げた。
五億二千万円の行き先は、ミナト設備の口座から、さらに三つの口座を経由して、海外の銀行で途切れていた。その先は、まだ誰にも追えなかった。
「江藤くんも、気の毒にね。長く勤めてくれたのに」
副社長が、資料を閉じながら言った。
堂島常務が解任された日と、よく似た言葉だった。
役員たちが、立ち上がりはじめた。
江藤部長は、椅子に座ったまま、膝の上で両手を組んでいた。
やがて立ち上がり、私の横を通り過ぎるとき、足を止めた。
誰にも聞こえないくらいの、小さな声だった。
「十五年前と、同じだ」
部長は、それきり振り返らずに、会議室を出ていった。
細い背中が、廊下の角に消えた。
十五年前と、同じ。
同じ会社の名前。同じ部屋。同じ、年度末の電話。
そして、誰か一人が全部をかぶって、終わる。
今度は、江藤部長が。
十五年前は、父が。
白いセダンの後部座席の、小さなチャイルドシートが、目の前に浮かんだ。
*
「灯」
声がして、顔を上げた。
社長が、私の前に立っていた。役員たちは、まだ半分、会議室に残っている。社外取締役の一人が、資料を鞄にしまう手を止めて、こちらを見ていた。
社長は、私の手を取った。
テーブルの上に置いていた、右の手を。手のひらごと、包むように。
そのまま、扉のほうへ歩き出した。
会議室が、静かになった。
誰も、何も言わなかった。副社長も、財務の取締役も、壁際の柏木室長も。
私は、引かれるまま、楕円のテーブルを半周した。外した眼鏡を、左手に握ったまま。
廊下に出ても、社長は手を離さなかった。
エレベーターホールまで、ずっと。
「社長。皆さんが、見てました」
「見せた」
社長は、エレベーターのボタンを押した。
「君の手が、冷たかったからだ」
エレベーターの扉が開いた。社長は、私を先に乗せてから乗り、扉が閉まるまで、手を離さなかった。
閉まる直前の隙間から、会議室の前の廊下に立つ柏木室長が見えた。室長は、こちらを見ていなかった。手帳に、何かを書いていた。
砂嵐の横顔だった。
それでも、手のひらは、温かかった。
テーブルの向こう側から、この人は、私の手が冷えていることに気づいていた。
*
その日の夕方、広報部の久我部長から、社長室に内線が入った。
柏木室長が受けた。短いやりとりのあと、室長は受話器を置いて、私のほうを見た。
室長の顔は、いつもよりも、さらに硬かった。
「週刊ラクーンの記者から、広報部に、取材の申し込みがあったそうです」
室長は、手帳を開いた。読み上げる声は、平らだった。
「記者の名前は、篠田由香。用件は」
一拍、間があった。
「鷹宮ホールディングス社長の秘書について、確認したいことがある、と」
コメント
1件
第37話、めっちゃ痺れた…! 江藤部長の「十五年前と同じだ」で一気に過去とリンクした展開、鳥肌立ったわ。 しかも社長、会議中に瀬名さんの手が冷えてるのに気づいてたんか…。 みんなの前で堂々と手を取ってエレベーターまで連れてくの、男前すぎるでしょ🔥 ラストの記者の取材、次どうなるのこれ〜続き気になりすぎる!