テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#契約結婚
草原草原

564
72
#王道
涙乃
848
#ざまぁ
草原草原

634
翌朝、広報部に呼ばれた。
三十階の窓際の席で、久我部長が、受話器を耳に当てていた。
私に気づくと、部長は手のひらを小さく上げて、少し待ってくれ、という仕草をした。
「……ええ。社員個人のことについては、お答えできません。……はい。会社としての見解は、文書で」
受話器の向こうの声は、聞こえなかった。
部長は、空いたほうの手で、左の耳たぶをつまんでいた。
電話の相手の顔は、見えない。
見えたとしても、読めない。電話の声は、私の目を通り抜けていく。
この受話器の向こうに、私のことを書こうとしている人がいる。どんな顔で、何を知っていて、何を書こうとしているのか。私には、何一つ見えなかった。
部長が受話器を置いたのは、十分後だった。
*
広報部の奥の、小さな打ち合わせ室で、久我部長と向き合った。
部長は、テーブルの上でメモ帳を一度開き、閉じた。
「篠田という記者は、しつこいので有名です。社会部あがりで、裏を取るまでは書かない。……書くときには、もう全部を取ってある」
「何を、聞かれたんですか」
部長は、私の目を見た。
「瀬名さんの、ご家族のことです」
膝の上で、指を組んだ。
「発売は、毎週木曜です。うちに回答の期限を切ってきたのは、再来週の月曜。記事は、たぶん、その週の木曜に出ます」
部長は、声を低くした。
「瀬名さん。去年の春、あなたに助けられた恩は、返します。宮下くんのことも、私のことも、あなたは誰にも言わなかった」
部長は、一度、目を伏せた。
「でも、記事は、止められません。週刊誌は、広報が頭を下げて止まる相手じゃない。それに」
部長は、少しだけ迷うように、耳たぶから指を離した。
「情報は、社内から出ています」
一本の線だった。
「篠田記者は、社員しか知らないはずのことを知っていました。瀬名さんの、入館の記録のことまで」
部長は、メモ帳を一枚破って、私のほうへ滑らせた。走り書きの字。地下二階、深夜、二回。
「私に言えるのは、ここまでです。会社の広報としては、もう、言ってはいけないことまで言いました」
私は、その紙を小さくたたんで、ポーチにしまった。古いハンカチの隣に。
部屋を出るとき、部長は、もう一度だけ、左の耳たぶをつまんでいた。
*
その週の金曜の夜。有楽町の、いつもの居酒屋。
まどかは、ハイボールに一口もつけずに、テーブルに身を乗り出した。
「三上さん、だって」
「三上さん」
「副社長の秘書の、三上京子さん。うちの派遣会社の子が、京橋のホテルのラウンジで働いてるの。先週、三上さんが、知らない女の人と一時間くらい、奥の席で話し込んでたって」
まどかは、スマホの画面をこちらに向けた。週刊ラクーンのウェブサイト。記者の顔写真の入った、小さなコラムの欄。
「その女の人、この人だって。髪がショートで、黒いリュックで、テーブルにボイスレコーダーを置いてたって。間違いないって」
画面の中の、ショートカットの、目の鋭い女性。篠田由香。
写真の顔は、読めない。
副社長の秘書。
髪をきっちりとまとめた、真珠のピアスの人。副社長室で、口元だけで会釈をした人。
「三上さんって、副社長の秘書を、もう二十年近くやってる人だよ」
まどかが、声をひそめた。
「総務でも有名なの。あの人が回してくる稟議だけは、誰も差し戻せないって」
「……まどか。この話、ほかの人には」
「言わないよ。これは、拡散していい噂じゃないもん」
まどかは、ようやくハイボールを一口飲んだ。
それから、ジョッキをテーブルに置いて、私をまっすぐに見た。
「灯。社長に、全部言いなよ」
「……全部、って」
「何を隠してるのか、私は知らない。聞かない。でも、記事が出てから言うのと、出る前に言うのとじゃ、全然違うよ」
一本の線だった。
まどかの顔は、いつだって、一本の線だ。
*
言おう、と決めた。
決めたのに、週末が来ても、言えなかった。
日曜の午後、母の病院へ行った。
個室の窓から、冬の薄い日が差し込んでいた。母は、ベッドの上で、編みかけの毛糸を膝に広げていた。
「あら、灯。また痩せた」
「痩せてないよ」
「痩せた。お母さんには、わかるの」
母は、編み棒を置いて、私の顔をじっと見た。私と同じ、少し下がった目。
「あんた、何か隠してる顔してる」
「……隠してないよ」
眼鏡のつるに、指が伸びた。母はそれを見て、小さく笑った。
「お父さんも、そうだった。隠しごとがあると、眼鏡をいじるの」
初めて聞く話だった。
「お母さん。もし、私が」
言いかけて、毛糸の玉に目を落とした。
「すごく悪いことをしたって、みんなに言われたら」
母は、毛糸の玉を、手のひらの中でゆっくりと転がした。
「お母さんはね、何があっても、あんたの味方よ」
一本の線だった。
母の「大丈夫よ」は、昔から、いつもぶれた。けれど、この言葉は、少しもぶれなかった。
私は、それ以上何も言えずに、毛糸の端を、指に巻きつけていた。
次の週も、言えなかった。回答の期限の月曜が来て、広報部が文書で答えたと聞いた日も。火曜も。
社長は、毎晩遅く帰ってきて、私の作った夕食を、黙って全部食べた。そのたびに、喉の奥で、最初の一言が溶けて消えた。
水曜の夜。
記事が出るのは、明日だ。
言う。今夜。全部。
父のこと。真野灯という名前。三年前、自分から鷹宮を選んだこと。地下二階の、空の箱のこと。
雪の夜に言いかけて、言えなかったことの、続きを。
この人の顔は、読めない。
私が話したあと、あの人が何を思うのか、私には一生わからないかもしれない。
それでも、記事で知られるよりは、ましだ。
夕方、客間の机で、言うことを紙に書いた。
一行目に、父の名前を書いた。真野誠一。
二行目を書く前に、紙を細かく破いて、ごみ箱に捨てた。紙に書いた言葉は、口からは出てこない気がした。
*
社長は、私より先に、風呂から上がっていた。
濡れた髪のまま、リビングのソファで書類を読んでいる。
私も、急いで風呂に入った。湯船の中で、最初の一言を、何度も組み立てた。
社長。お話があります。
社長。私の、父は。
洗面所でドライヤーを手に取ったとき、鏡の中で、扉が開いた。
社長が、白いシャツの袖をまくりながら、入ってきた。
「貸せ」
「え」
社長は、私の手から、ドライヤーを取り上げた。
「君は、いつも半分濡れたまま寝る。朝、後ろの髪が跳ねている」
「……見てたんですか」
「毎朝、見ている」
温かい風が、首筋に当たった。
社長の指が、私の髪の間に入ってくる。根元から、少しずつ、持ち上げるように。
慣れない手つきだった。ときどき、指先が耳に触れた。そのたびに、手が一瞬止まって、また動き出した。
鏡の中に、二人が映っていた。
眼鏡を外した私と、私の後ろで、真剣な顔をしてドライヤーを動かしている人。
鏡の中の顔も、砂嵐だった。
言わなければ、と思った。
今だ。今、言えば。
「社長」
「なんだ」
ドライヤーの音で、声が少しだけ遠かった。
「……私」
社長の指が、私の髪をすくった。
耳の後ろの、まだ湿っているところを、丁寧に乾かしていく。
この時間が、ずっと続けばいいと思った。
言ったら、終わってしまう。この指が、もう二度と、私の髪に触れなくなる気がした。
「……熱いです。少しだけ」
「そうか」
社長は、ドライヤーを、指一本分だけ遠ざけた。
私は、鏡の中の自分から、目を逸らした。
臆病な女の顔だった。
人の嘘なら、いくらでも見抜けるのに。
*
翌朝。
中目黒の駅の売店の前で、足が止まった。
週刊誌の棚。並んだ表紙の、一番手前。
黄色い太字の見出しが、目に飛び込んできた。
冷酷CEOの”愛人秘書”は、十五年前の横領犯の娘だった
コメント
1件
久我部長の「記事は止められない」って言葉に一気に引き込まれました……。灯さんが社長に打ち明けようとして、でも言い出せずにいるもどかしさが、髪を乾かしてもらうシーンでじわっと来ました。あの「熱いです」の一言が切なくて。最後の見出し、ゾッとすると同時に、この週刊誌の記事がどんな形で社長に届くのか、次が気になって仕方ないです。