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hotaru🌙
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ハイカラな建物が整然と建ち並ぶ大通りは、時代の先端を行く華やかさと活気に満ち溢れていた。
通りを行き交う人々は、仕立ての良い洋装を身に纏った紳士や、モダンな柄の着物に身を包んだ女性達。人力車の車輪がガラガラと乾いた音を立てて石畳を転がり、遠くからは市電の鐘の音が涼やかに響いてくる。
そんな賑やかな雑踏の只中を、職人用の頑丈な革鞄を大事そうに抱えた向井は歩いていた。
其の足取りは軽く、顔には隠し切れないほくほくとした満足げな笑みが浮かんでいる。
今日の仕入れは大成功だった。小さな問屋では到底手に入らない様な英国製の極小の精密歯車や、靱やかで耐久性の高い特注のゼンマイを、懇意にしている輸入商から運良く譲って貰う事が出来たのだ。
大通りに出ると向井はふと足を止め、ぽっかりと空が広く見える交差点の角を見上げた。嘗て其処に聳え立ち、街に時を告げていた大きな時計塔。約四年前に解体され、今は更地と為った其の場所を仰ぎ見乍ら、ぽつりと呟く。
「…又見れるとええなぁ、あのでっかい時計。」
当時の情景を知る者としての寂しさと、何時か又此の場所に新しい時が刻まれる事への密やかな期待。
何処か遠くを見る様な瞳で空を見つめた後、向井は胸元で革鞄をぎゅっと抱え直した。
其の時だった。
「まあ…あの方、伯爵では…?」
「本当だ。お傍にいらっしゃるのは…、」
通りを行き交う人々が次々足を止め、小さなどよめきと共に一目置く様な視線を向けていた。
(伯爵?)
向井は何気無く其の視線の先へと目を向け、息を呑んだ。
人混みを割る様にして歩いて来るのは、群衆の誰もが一目で其の人と解る程に圧倒的な存在感を放つ影だった。
周りから頭一つ抜けた高い背。寸分の狂いも無く仕立てられた洋服を纏い、背筋をすっと伸ばして歩く男。長い脚が生み出す歩幅は力強く、何処迄も凛として居る。日差しを受けて透き通る黒曜石のような瞳は、前方だけを冷ややかに見据えていた。
思いがけない場所での遭遇に胸が跳ねた。ぱっと表情を輝かせ、無意識に足を踏み出し掛けた向井の動作が、ピタリと途中で凍り付く。
目黒の直ぐ隣──正確には其の一歩後ろを──静々と付いて歩く一人の女性の姿が視界に入ったからだ。
シルクのドレスを纏い、隙のない洗練された所作で歩く若い女性。透き通るような白い肌に、静かな気品を湛えた美しい顔立ち。控えめ乍らも其の美貌を引き立たせる髪飾りが、午後の柔らかい日差しを受けて上品に煌めいていた。
一目見ただけで、解ってしまった。
目黒と云う高貴な男の隣に並ぶ事を許された其の圧倒的な格の違いと纏う空気の気高さが、全てを物語っていた。
(…佐久間子爵家の、お嬢さんや…。)
後に目黒の婚約者、そして妻と為る女性。
直感的にそう悟った瞬間、向井の胸は冷たい小さな針で突かれた様にチクリと痛んだ。
自分の生きる下町の小さな世界とは真逆の、洗練された二人の姿。
目黒の横顔の美しさと、其れに慎み深く寄り添う佐久間家の令嬢──朔乃の麗しさは、まるで絢爛豪華な一枚の額縁絵の様だった。其の証拠に、大通りを行く誰もが振り返り、《何とお似合いのお二人だろう》と羨望の眼差しを向けている。
(ほんまに別嬪さんや…。)
素直に見惚れてしまう程に上品な娘。目黒の隣に立つに相応しい其の容姿。
──其れなのに。
(…何か、嫌や。)
ふっと胸の奥を掠めた、小さな歪み。
文句の付けようも無い程、美しくお似合いな筈なのに…何故か其の光景を直視する事に微かな拒絶感が走る。
何に対しての感情なのか、自分でも全く解らない。只、ほんの僅かなモヤモヤとした引っ掛かりが、喉の奥に小さな棘の様に刺さっていた。
(何で、そう思うんやろ。)
己の思考に戸惑う暇も無く、向井の手に抱えられた鞄が急に重く感じる。其れはまるで、今迄の夢から自分を現実へと引き戻す重石の如く。
尚も二人の姿を見つめ続ける向井の瞳は、直ぐに別の違和感も捉えていた。
大通りの華やかさの中を歩む二人に、幸福の温度は無かった。彼等の間には甘い空気も、互いに視線を合わせて微笑み合う様な仲睦まじい様子も、一切存在していなかった。
目黒は朔乃を気遣う様子も無く只管に前だけを見つめ、一切の感情を削ぎ落とした冷徹な顔で淡々と歩を進めている。彼女も又、寸分違わぬ距離を保った侭、俯きがちに静かに其の背中へ着いて行く。
其処に在るのは、互いを慈しみ合う愛や温もり等では無く、家柄と立場によって結ばれた者同士が演じる、冷ややかな『通過儀礼』であった。
《来年には家系の為の結婚も控えている。》
嘗て、静まり返った部屋で目黒が何処か遠くを見る様な瞳で語っていた言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。
本当に互いの家柄の為だけに決められた政略結婚なのだと、向井は痛く悟ってしまった。
…哀しい。
でも其れは、一体何に対しての哀しみなのだろうか。
最初は、瞬時に二人に向けられたものだと思っていた。愛の無い結婚を粛々と受け入れ、あんなにも冷めた瞳で歩いている二人に。
だが、深く考えれば考える程、其の感情が何処へ向いているのか解らなくなっていく。
目黒が手の届かない、遠い世界に行ってしまう事?
一瞬でも《嫌だ》なんて身勝手な想いを抱いた自分の心?
──其れは、何故?
「何や…此れ…っ」
視界が歪み、胸の奥がぎゅっと固く絞り上げられる様に痛んだ。ドクン、ドクンと心臓が嫌な高鳴りを上げ、息を吸う事すら苦しくなっていく。
二人に向いていた筈の感情がぐるぐると渦を巻き、自分自身の心を鋭く削り取っていく感覚。
…もう此の場に居てはいけない。大通りの中心で繰り広げられた表面上の二人の世界と、其れを陰から密かに盗み見ている惨めな自分と云う存在の乖離に、頭が如何にかなりそうだった。
「っ…!」
向井は強く眉を寄せると、耐え切れずに強引に踵を返した。
仕入れた大切な部品が入った鞄を落ちないようにぎゅっと抱え直す。振り返る事も無く、半ば逃げ出す様な足取りで向井は其の場を去った。
街の喧騒も、市電の音も、もう何も耳に届かない。
胸の中で暴れる正体不明の痛みと苦しさに追い立てられ乍ら、向井は自分の店を目指して歩を進め続けた。
其の足は、知らない焦燥感に比例する様に徐々に速くなっていく。
只管に駆ける。駆ける。
「はぁっ…はぁっ…!」
何故此れ程急ぐのか、何から逃げているのかすら解らない。只あの場から一刻も早く離れたくて、向井は無我夢中に足を動かした。
軈て見えてきた宮舘呉服店の店先には、宮舘と岩本が世間話をしていた。
「おう、康二!」
岩本の呼び掛けすら耳を通り抜け、向井は二人の前を擦り抜けて自分の店へ転がり込む。
「…康二?」
「何だよ、無視か…?」
向井の様子に岩本は訝し気に眉を寄せ、宮舘と顔を見合わせた。
作業台へ両手を突き、荒い息を吐く。あれ程大事に抱えていた革鞄を乱雑に台へ放り出し、中の精密な部品を確かめる余裕も無く、
「…はぁ…っは…、」
胸元を固く握り締めると、身体の内側では嫌な拍動が打たれている。目を閉じれば、脳裏に焼き付いている華やかな街角と、並んで歩く美しい二人。
当然だ。彼等は華族なのだから。
育った環境も、背負うものも違う…最初から解っていた筈だった。
何も変わっていない。
今日だって仕入れに出かけ、偶々彼を見かけただけだ。
唯其れだけなのに、 胸の奥がきゅっと締め付けられるように痛む。自分だけが置き去りにされた様な感情に、
「…あかん、落ち着け…。」
向井は頭を振り、深く呼吸を吐き出した。強張った肩から力を抜き、無理に口元を緩める。
「別に…何も変わってへん。目黒さんも、俺も。」
今度会った時も、又普通に話せば良い。
珈琲を淹れ、下らない話でもして、いつも通り友人みたいに笑って居れば良い。
(目出度い事やんか…其れでええねん。)
自分に言い聞かせるように頷くと、不思議と心拍が静まっていった。何故か濡れ始めていた目元を袖口で拭い、放り出した鞄を開ける。部品は無事だった。
「…良かった…。」
安堵の息を漏らした時、扉をこんこんと叩く音がした。
「康二。…入っても良い?」
「舘さん…?ええよー!」
恐る恐る入ってきた宮舘と後に続く岩本に、向井は《どしたん?》と笑ってみせる。
「お前、さっきは如何した?」
「、あぁ!ごめんな照兄!」
岩本が腕を組んで問うと、向井は努めて明るく答える。
「一寸急ぎの用事があっただけやねん。」
「あんな切羽詰まった様な顔してか?」
「…細かい事はええやん。」
宮舘はそんな彼を暫し見つめていたが、何も聞かずに視線を逸らす。其れ以上、二人が踏み込む事は無かった。
「…康二、何か有ったら直ぐに云うんだよ?」
「おん、いつも有難うな舘さん。」
「行こう、照。」
「?おう…。」
二人を見送り、静まり返った店内に一人取り残され、徐々に笑みが剥がれていく。
向井は何も言わず、そっと目を伏せる。 胸に残る正体不明の違和感。いつもと同じ筈の時計の音が、今日は何故か、少しだけ遠く聞こえた。
コメント
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あれ? 甘酸っぱい🖤🧡が… ちと変わっていく香りが…する