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hotaru🌙
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初夏の気配が混じり始める、春の終わりの夕刻。下町の路地に吹き抜ける風が、青々とした草の匂いを運んでくる。
あの日に大通りで二人の姿を目撃して以来、目黒が店を訪れる頻度が露骨に減った事に、向井は戸惑いを隠せずにいた。
そんな或る日の夕暮れ。
「康二。」
「…目黒さん、」
作業台から勢いよく立ち上がった向井の目に飛び込んできたのは、落ち着いた色合いの洋装に身を包み、何処か疲れを滲ませた目黒の姿だった。
「…済まない、間が空いた。」
「いやいや!仕事、忙しいんやろなって思ってたから。…今、珈琲淹れるな?」
客用の席に腰掛ける目黒に向井は努めて明るく笑い、豆を挽き、細い注ぎ口から丁寧に湯を落としていく。ふわりと立ち上る、ほろ苦く香ばしい湯気。静かな空間に、ぽとぽとと黒い雫が落ちる音が響く。
目黒はその間、一頻り店内を見回す。少しだけ変わった陳列品に時の流れを感じた。
「お待たせ!どうぞ。」
軈てローテーブルに置かれたカップを持ち上げると、其の馨りを確かめ、一口啜る。
「…お前の淹れる珈琲も、やはり美味いな。」
「へへ、良かった。…さて…ほんなら、点検しよか。」
「あぁ、頼む。」
向井は作業台から工具を移して目黒の対面に座ると、彼から差し出された懐中時計を丁寧に受け取る。ルーペを嵌めて裏蓋を開けると、直ぐ目の前で珈琲を味わう目黒の静かな視線に、向井の鼓動がほんの少しだけ逸った。
しかし、其の穏やかな時間は長くは続かなかった。
「…先日、結納が済んだ。祝言は半年後、十一月になる。」
静寂を破ったのはカップを置く小さな音と、目黒の低く落ち着いた声。其の言葉にカチン、と工具が基盤の上で擦れ、小さな金属音を立てた。
「…そう なんや。」
顔を伏せたまま、向井は必死に声を張った。祝わなければいけない。目黒家を背負う当主として、大切な家の為の決断なのだから。解っている筈なのに、先程まであんなに香ばしく感じられた珈琲の馨りが、急に柔く、じわじわと喉の奥を締めつけるように苦く感じられた。
「…彼女は良い娘だ。目黒家にとっても申し分無い。」
淡々と語る目黒の声には、歓喜も悲哀も混ざっていない。只、当主として課せられた義務を遂行するだけの冷ややかさだった。
(…そんなん、聞きたない。)
そう思っても、向井の口から滑り落ちたのは、
「…ええ事やん。あんな別嬪な娘さんを奥方様に迎えられて、目黒家も安泰やね。」
努めて軽快に振る舞おうとする言葉に、目黒の眉根がピクリと動いた。
婚姻相手が誰なのか云った事も、写真すら向井に見せた事も無い。にも拘らず、向井の口から出た感想は、明らかに…
「何故相手を知っている?」
「え、?…あっ、いや…噂で、!」
声音を落とした急な問い質し。向井の目が泳いだ事で、目黒は直ぐに虚言と見抜いた。
「…何処で見た?」
「っ、偶々!偶々此の前大通りで見かけただけや!…お似合いやったで、ほんまに…。」
誤魔化し切れないと悟り、顔を伏せ乍ら素直に白状する向井。
動揺した彼の脚が、ローテーブルに当たる。机上がガタンと揺れると、置いていたピンセットが音を立てて目黒の足元へと滑った。
「あっ──」
急いで拾おうと伸ばした向井の手と、反射的に差し出された目黒の指先が微かに触れ合う。
ほんの一瞬の接触。だが、互いに電気でも走ったかの様に、動きがぴたりと止まった。
目黒は無言の侭、只じっと自分の手元と、震える向井の指先を見つめている。
何故向井が大通りで見かけただけで此れ程に狼狽し、傷付いた様な顔をしているのか。そして、自分が何故此れ程に彼の動揺に胸を締め付けられているのか。目黒は只管に思案し続けていた。
触れようと思えば、其の手を握る事だって出来る距離。しかし目黒は静かに自らの手を引き戻した。
「…済まない。」
逸らされる前のほんの一瞬。目黒の瞳に宿った切なさを感じ、向井の心の中でカチリと何かが噛み合った。
(あぁ…そうか。)
向井は、此の期に及んで漸く悟った。
大通りで胸を刺した、あの正体不明の痛みの理由。
目黒が他の誰かのものに為ってしまう事への、胸が潰れる様な恐れ。
其れが全て、何という名前の感情なのか。
(俺はやっぱり…目黒さんの事、好きなんや。)
そう理解してしまった瞬間…ぽたりと温かい雫が一つ、床を濡らす。
華族と平民。
男と男。
其の想い人は、半年後には他人の夫。
此の時代に於いて、言葉にする事すら憚られる恋心だった。
「…康二、…?」
手元を見つめた侭涙を落とした向井に気付き、目黒は息を呑む。伸ばした手は空中で静かに握り締められ、ゆっくりと下ろされた。
目黒に声を掛けられ、ハッと我に返った向井は袖でがしがしと目元を拭い、
「…何も無いよ。目にゴミが入っただけや…あー痛ぁ…。」
そんな言い訳をして笑みを浮かべてみせても…如何しても引き攣ってしまう。
「目黒さん…幸せになりや?」
目黒の背中をそっと優しく、且つ突き放す様に放たれた其の言葉は、今にも儚く消え入りそうだった。
彼の笑顔が、言葉が、何れ程無理をして紡がれたものなのか、目の前に居る目黒に解らない筈が無かった。
「…康二。」
目黒の喉が微かに鳴る。向井の瞳には深い哀しみと、言葉にならぬ痛みが揺らめいた。
今直ぐにでも其の細い肩を抱き寄せ、言葉を撤回させてしまいたい──そんな衝動が胸を突き上げる。
だが、当主としての重責も半年後の宿命も、全てが二人の間に容赦なく立ち塞がっていた。
目を伏せ、小さく息を吐くと、目黒はゆっくりと立ち上がった。
「…長居した。時計は、又後日受け取りに来る。」
「えっ…目黒さん?」
此れ以上留まれば、己の理性が決壊してしまいそうだった。
目黒は背を向けると、其の侭静かに店を後にした。
チリン、と哀しい程澄んだ鈴の音が響き、扉が閉まる。
静まり返った店内に残されたのは、冷めていく二客の珈琲と、ローテーブルの上で変わらず時を刻み続ける銀の懐中時計。
「…っ、…ふ…ぅ…、!」
一人になった途端、溢れ出た涙が留まる事無く頬を伝う。向井は只々机に突っ伏し、声を押し殺して喉を震わせた。