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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
帰りの電車の中で、榊さんはほとんど口をきかなかった。
窓に映る自分の顔の向こうで、街の灯りが流れていった。
私は膝の上で、スマートフォンの画面を伏せていた。帳場で撮らせてもらった、控えの写真が入っている。
「二年前の十一月」
降りる駅の一つ手前で、榊さんが言った。
「八百万の現金が義母に入った週に、三百万が蒼真に流れている。あなたの家計簿のとおりなら」
「……旦那様は、立会人として、お金を受け取ったんでしょうか」
「受け取ったか、取り立てたか」
榊さんは、窓の外を見たまま言った。
「蒼真は、自分の名前が出る場所には来ない男です。それが、署名をしている。よほど金が欲しかったんでしょう」
二年前の秋。
一年前の、二億の保険。
あの人は、ずっと前から、足りないお金を家の中から集めていたのだ。茶碗からも。妻の命からも。
*
その夜、半地下の鉄のベッドで、私は二年前の秋のことを思い出していた。
あのころ、和館の茶室に、夜遅くまで灯りがついている日が続いた。
お茶を一杯運んでいくと、お義母さまは床の間の前に一人で座っていた。稽古の道具も出さずに、ただ座っていた。
「下がりなさい。呼んでいないわ」
そう言われて、私は盆ごと湯呑みを置いて下がった。
翌朝、湯呑みは空になって、水屋の流しに伏せてあった。
あの夜、お義母さまは何を見ていたのだろう。
床の間の掛け軸か。それとも、もうそこにはない茶碗の箱か。
三千万の穴を、あの人は誰にも言わなかった。嫁にも、息子にも。
そして、息子だけがそれを嗅ぎつけて、立会人の欄に名前を書いた。
かわいそうだとは、思わなかった。
思わないようにした。あの人は、私の葬式を急いだ人だ。
*
翌日の午後、お義母さまに茶室へ呼ばれた。
茶室には、麗奈が先に座っていた。
撮影の日以来、初めて一階に下りてきた麗奈だった。
淡いピンクのワンピースに、髪をきつく一つにまとめている。ネイルは、短く切られていた。
茶会に長い爪で出ることは許さない、とお義母さまに言われたらしい。「おばあちゃまが、つめをパチンってさせたの」と、あとで陽翔が教えてくれた。
「七夕の茶会では、麗奈さんにお運びをしてもらいます」
お義母さまが言った。
「御影の嫁が、客の前で何もしないわけにはいかないでしょう。葛城さんの件で、白樺台じゅうの目がこの家を見ているのよ」
麗奈は、唇を噛んだまま、うつむいていた。
「佐伯さん。あなたは水屋で、麗奈さんの手伝いを」
「かしこまりました、大奥様」
稽古が始まった。
麗奈は、茶道口の前で、盆にのせた菓子器を持って立ち上がった。
一歩目で、畳の縁を踏んだ。
「縁を踏まない」
お義母さまの扇子が、畳を一度叩いた。
麗奈は足を引っこめ、今度は大股で縁をまたいだ。
菓子器の蓋が、かたりと鳴った。
「歩幅は、畳一枚を六歩。音を立てない」
「……はい」
三度やり直して、麗奈の額に汗がにじんだ。
お義母さまは、扇子を膝の上で閉じた。
「旅館の仲居なら、お運びくらいできるでしょう」
お義母さまの目が、水屋の入口に控えていた私に向いた。
「佐伯さん。一度、やってみせて」
*
盆を受け取った。
茶道口の前に、膝をつく。
襖に手をかけ、一呼吸おいてから、開けた。
その一呼吸を、私は考えずにやっていた。
――入る前に、一つ息をしなさい。部屋の空気を乱さないように。
三年前、お義母さまに何度も言われた言葉だった。
私が息を整えずに襖を開けるたびに、扇子が手の甲を打った。赤い跡が、夕飯の支度の時間まで消えなかった。
立ち上がり、摺り足で畳を進む。
縁は踏まない。畳一枚を、六歩。盆の高さは、胸の前で変えない。
客の座の前で膝をつき、菓子器を置く。
正面を、客のほうへ。
それから帛紗を腰から抜き、三角に折り、たたみ、もう一度たたむ。
ぱん、と一度だけ、乾いた音を立てた。
手が、全部覚えていた。
茶碗をのせた盆を受け取り、もう一度、同じ道を進む。
客の前で、茶碗を回し、正面をずらして置く。角度は、畳の目に対して、ほんの少しだけ。
置いてから、気づいた。
この角度は、お義母さまの角度だ。
流派の教本にも書いていない、お義母さまだけの、少し内側に寄せる置き方。三年かけて、私の手に移された癖だった。
茶室が、静かになっていた。
顔を上げると、お義母さまの目が細くなっていた。
老眼鏡の奥で、何かを測る目だった。
蔵で茶碗を持った私の手元を見ていたときと、同じ目だった。
「……どこで習ったの」
「旅館の女将に、教わりました」
凛の声で、言った。
「お茶のお客様もいらっしゃる旅館でしたので。見よう見まねでございます」
あなたに習ったんです、お義母さま。
三年間、毎朝、この茶室で。扇子で手を打たれながら。
その言葉を、私は帛紗と一緒に、腰に挟んで隠した。
「見よう見まね」
お義母さまは、私の言葉をそのままなぞった。
「見よう見まねで、その置き方になるの」
返事は、求められていなかった。
お義母さまは、それきり私から目を外し、麗奈に向き直った。
「麗奈さん。いまのを、もう一度」
麗奈は、私の置いた茶碗を見つめたまま、立ち上がらなかった。
「……できません。あんなの、一週間じゃ無理です」
「そう」
お義母さまは、扇子を帯に差した。
「では、当日のお運びは結構よ。あなたは、お客様として座っていなさい。末席に」
麗奈の頬が、さっと赤くなった。
*
「なんで、家政婦ばっかり」
稽古が終わったあと、水屋で麗奈が言った。
小さな声だった。それでも、私の背中には届いた。
「お運びするのは、私のはずだったのに。なんで、私の前で家政婦に見本なんかやらせるのよ」
麗奈は、短くなった爪で、水屋の棚の縁をこすっていた。
「あんたが、サフランパンなんて言いださなければ」
言いかけて、麗奈は口をつぐんだ。
私の顔を、まっすぐに見る。
その目の中で、何かがゆっくりと形になりかけていた。
セラーの鍵。勝手に揃っていた料理。それっぽいと笑ったパン。
「奥様、お湯を下げてまいります」
私は釜を持って、その目の前を通り過ぎた。
*
夕方、片づけは私一人でした。
麗奈は早々に洋館へ戻った。
お義母さまは茶室の床の間の前に座り、掛け軸を見上げていた。
風炉の灰の中で、炭がまだ赤く残っていた。
火箸で一つずつ火消し壺へ移し、灰を整える。
最後の一つで、手が止まった。
炭の燃え残りは、次の稽古の下火に使う。
それとも、捨てる。それを決めるのは、この茶室の主だ。
私はいつものように、振り向かずに聞いていた。
「お義母さま、炭は」
声が、茶室に落ちた。
火箸の先で、炭が小さくはぜた。
背中で、扇子の動く音が止まった。
「……大奥様。炭は、残しておきますか」
言い直した声が、自分の耳にもかすれて聞こえた。
振り向けなかった。
火箸を握った手袋の指が、灰の中で固まっていた。
「残しておきなさい」
しばらくして、お義母さまの声がした。
いつもと同じ、平らな声だった。
「宗一郎の時代から、残り炭は捨てない家よ」
知っています。
最初の冬に、それを知らずに炭を捨てて、一晩、水屋で正座をさせられたのは、私だから。
私は、炭を火消し壺の脇に並べた。
三つずつ、二列。昔、そうしていたように並べかけて、一つだけ位置をずらした。
茶室を出ようと、膝をついて頭を下げた。
「失礼いたします」
「佐伯さん」
畳の上を、扇子が滑る音がした。
顔を上げると、お義母さまが閉じた扇子の先を、まっすぐに私へ向けていた。
白檀の匂いが、茶室の中に細く流れていた。
「七夕の茶会、半東はあなたがなさい」
コメント
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うわぁ第26話、胸がぎゅってなりました…😭💕 「手が、全部覚えていた」の一文にグッときた…! 三年前に叩き込まれた所作が、いまも体に染みついてるのが切なくて美しすぎる。それをお義母さまの前で“見よう見まね”って言い切る強さ、好きだなあ。 炭を並べるときに一つだけ位置をずらす細かい抵抗とか、「半東はあなたがなさい」のラストの一言の重みとか、もう全部エモすぎて何回も読み返しちゃったよ…!! 草原さんの筆致、心臓にじんわり効くわ〜✨ 続きが待ちきれないよ!